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ブエノスアイレス訪問記 pt.1

text by / category : バカンス・旅行

今年の3月初旬、ブエノスアイレスを訪れた。日本から見て、ちょうど地球の裏側だ。季節は夏の終り、時差12時間で腕時計をいじる必要がなかった。フランクフルト経由、片道30時間の道のりは楽ではなかったが、なんとかたどり着いた。行こうと思えば、どこへでも行けるものなのだ。

訪問の主な用件は国立図書館で1930年代の雑誌を閲覧し、研究中の詩人の足跡を調べることだったが、その話は専門的すぎるので、ここでは措く。ただ、ユダヤ人詩人にとってアルゼンチンとは何だったのかということを、もっと深く考えなくてはいけない、と思わされた。第二次大戦の中立国だったアルゼンチンは、ユダヤ人とナチの残党がともに逃げ込んだ国でもあった。

さて、僕はブエノスアイレスしか見なかったので、パタゴニアの氷河やイグアスの滝に代表されるアルゼンチンの雄大な自然については、何も言えない。首都の第一印象は、「ヨーロッパ以上に白人ばかり」というものだった。住民の大半はスペインとイタリアを中心とするヨーロッパにルーツをもつ。先住民とのメティスもいるが、黒人はほぼ皆無、アジア系もごく少数だ(韓国人のコミュニティはあるらしいが)。6日間の滞在で、街中で日本語が聞こえたのは1回だけだった。もちろん、ローマン・アルファベット以外の文字は見かけない。

歴史ある教会建築はバロック様式ばかり。つまり、ヨーロッパ風だが、中世が抜け落ちている。国立美術館には、ゴヤやゴーガンの優れた作品が所蔵されているが、これは当然、ヨーロッパから船で運んできたものである。ゴーガンがタヒチで描いた絵は、おそらく一度ヨーロッパで売られてから、南米の端まで送られてきた。その経路を想像すると、少しめまいがしてくる。アルゼンチン人画家というものは、当然のことながら、スペインから独立した19世紀以降にしか存在しない。そして、独立した人々も、民族的には植民者の末裔である。つまり、先住民の文化の継承者ではない。今では国民の象徴であるガウチョも、もともとは遊牧に従事するスペイン人植民者だった。

日本とアルゼンチンは、ヨーロッパからほぼ等距離にある。しかし、その歴史は対照的だ。中国を含め、外国からの政治的な支配を免れてきた日本と、スペインに徹底的に支配され、ヨーロッパ化されたアルゼンチン。僕が知り得た先住民文化の痕跡は、ウミータと呼ばれるトウモロコシ料理だけだった。

もうひとつ、地区による貧富の差がはっきりしている。これは世界中の大都市に見られる現象だ。国立図書館があるレコレータ地区では、高級マンションの入口に常時コンシエルジュが常駐している。一方で、かつてスラム街があったというコンスティトゥシオン駅界隈では、昼間から娼婦がたむろし、市場ではまがい物のバッグを売っている。石畳の道が続き、古き良きヨーロッパの書割みたいな観光地のサン・テルモ地区と、港に面してガラス張りのビルディングが立ち並ぶ商業的なプエルト・マデナ地区。早い話が、地下鉄の路線が変わるだけで、雰囲気ががらりと変わる。これはパリでも経験することだが、ブエノスアイレスではより劇的だ。

地下鉄は、紙の切符を廃止し、スーベという電子パスのみで乗車できる。驚いたのは、駅の通路に聖母マリアの肖像が飾られていたこと。敬虔な信者は、その前で立ち止まり、十字を切っていく。さすが現法王フランシスコを輩出したカトリック大国だ。もっとも、そのカトリックのせいで妊娠中絶の合法化が実現せず、女性の権利が抑圧されている、と哲学研究者の友人は眉をひそめていた。

残念なのは、夜のブエノスアイレスを堪能する体力がなかったこと。僕はお酒も飲めないし、一人旅で治安も気になるので、一日の疲れをおしてまで、夜遅くまで街中で遊ぶ気がしなかった。ところが、アルゼンチン文化は、タンゴにせよサッカーにせよ、夜に花開くものらしい。地区の違いに加えて、昼夜の違いを体験できなかったのは、ブエノスアイレス旅行記としては片手落ちというもの。どうぞご容赦を。



posted date: 2018/Apr/18 / category: バカンス・旅行

1975 年大阪生まれ。トゥールーズとパリへの留学を経て、現在は金沢在住。 ライター名が示すように、エヴァリー・ブラザーズをはじめとする60年代アメリカンポップスが、音楽体験の原点となっています。そして、やはりライター名が示すように、スヌーピーとウッドストックが好きで、現在刊行中の『ピーナッツ全集』を読み進めるのを楽しみにしています。文学・映画・美術・音楽全般に興味あり。左投げ左打ち。ポジションはレフト。

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