フランスからグローバリゼーションとオルタナティブを考える新しいフランス学

1.17から3.11へ(17年目の覚え書き)

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阪神大震災から今年で17年が経った。17年というのは、別に節目の年ではないが、今年はこれまでとまったく違った印象でこの日をむかえた。言うまでもなく、東日本大震災があったからだ。

1995年1月17日の朝、当時大学生だった僕は、西宮市との境近くにある仁川高台の下宿にいて、被災した。木造モルタルの集合住宅の1階に住んでいたが、後になって、多くの学生が同様の下宿屋で倒壊した屋根の下敷きになって亡くなったことを知った。サークル仲間の友人もそうした一人だった。僕は自分が「生き残った者」だと感じたが、なぜ自分が生き残ったのか分からなかった。こうした感覚は、おそらく多くの被災者が感じるものだと思う。3日後、大阪に脱出した僕は、何も変わらず「川の流れる地下街」で遊んでいる人たちを見て、自分がまったく別の国から来たような錯覚に襲われた。僕がユダヤ人作家や日本の戦後詩などに一時期傾倒したのは、こうした被災経験のせいだった。

それ以来、1月17日は僕にとって最も重要な日付となった、かと言うと、必ずしもそうではなかった。自分では震災にこだわっていたつもりだったのに、震災から6年後の2001年1月17日、僕は留学先の大学で授業を受けていて、ノートに日付を書いたときに初めて、それが震災記念日であることに気づいたのだった。それは衝撃的な瞬間だった。記念日は、それを記念する社会のなかでのみ有効に機能する。フランス人にとっての1月17日は、ほとんどの日本人にとっての10月23日のように、何と言うことはないただの一日だった。そのことにさえ、フランスに暮らしていた僕は、自ら日付を書き付けるまで、迂闊にも気づかなかったのだった。

それに較べて、東日本大震災(僕としては「平成三陸津波」が最も明瞭な名称だと思うが、行政的配慮から、被災地全体をカバーする呼び方が選ばれたのだろう、普通は「東日本」と言えば、日本海側も含めるべきなのだけれど)が起きて以来、11日が来るたびに、月命日を数えるような気分にさせられる。東北で亡くなった友人知人はいないにもかかわらず、11日は少し動揺する。なぜなのだろうか。どうやら、僕のなかで、あれほど重大な経験だった阪神大震災が、相対化されてしまったようなのだ。誤解を恐れずに、はっきり言ってしまえば、東日本大震災に較べれば、あれでもまだましだったのではないか、と思ってしまうのだ。

2012年1月17日現在の東日本大震災の死者は1万5844人、行方不明者は3393人とのこと。死者の数を競って、阪神大震災が相対的に軽かった、と言うつもりはない。17年前に亡くなった人たちも、昨年3月11日に亡くなった人たちと同様に無念だったはずだ。燃えさかる長田区の映像は、気仙沼の夜と同じくらい、不気味で、無慈悲で、悲しかった。だが、津波が引いた後に現れた、あまりに巨大な空白の土地を見ると、これはひどすぎる、と思ってしまう。

僕は地震発生の2週間後に、三宮を歩いたことがある。まだ神戸新聞のビルはひしゃげたまま駅前に残っていた。だが、それは「原型をとどめて」いた。つまり、それが元々は何のビルだったか、だいたい見当がついた。当時、阪神電鉄が青木駅までいち早く開通したので、そこから三宮まで歩いて往復した覚えがある。青木駅前の商店街は火事で燃え落ちていた。それは悲惨な光景だった。

だが、さらに悲惨だったのは、新しい建物ができるたびに、そこに何があったのか、思い出せなくなることだった。「あれ、ここって何があったっけ?」という会話を、何度も友人と交わした。あるいは、たとえ思い出せても、それがしだいにリアリティを失っていく。これは震災復興に限った話ではない。しかし、震災はかつての風景を一挙にまるごと壊し、「復興」は新しい風景をそこに塗り直す。神戸にはマンションばかりが林立し、阪神間にそれまであったたおやかな余裕のようなものが消え去った。もっとも、それはバブル崩壊の時期と重なっていたせいかもしれない。それにこれはほんの数年間暮らした学生の印象にすぎない。地元住民には、もっと複雑な思いがあっただろうと想像する。

今回の東北の震災で、写真を発掘するボランティアがいたことは感動的だった。津波は、人命と建物だけでなく、土地の記憶そのものを奪っていく。写真は記憶の収奪に抵抗する有効な手段だ。陸前高田市の「奇跡の一本松」が話題になったが、あれは「復興のシンボル」というよりも、かつてそこに松林があったということにリアリティを与えてくれる「記憶のシンボル」だったのではないか。だからこそ、みんなが保存を願ったのだ。かつて生きていた風景に属する何かがなければ、そこが自分が生きてきた場所だと思うことさえ難しい。僕は1月18日に友人の下宿を探し歩いたが、周囲の建物がほとんど全壊し、道が分からなかったことを思い出す。新しい風景が、すでに僕の記憶を拒んでいた。

福島第一原発の事故は、いまだ収束せず、むしろ影響の範囲を拡大しながら続いている。原発周辺では、風景はほぼそのままあるのに、そこに住んでいた人たちからは奪われてしまった。土地と結びついた記憶は、これから17年後にはどうなるのだろうか。僕には想像もできない。

今年、神戸市は東北の被災者を17名、追悼の集いに招待した。そして、午後2時46分にも黙祷が捧げられた。奇しくも同じ46分(阪神大震災は午前5時46分だった)、17年目の17日に17名の新しい被災者が立ち会ったわけだ。もちろん、こんな語呂合わせに大した意味はないだろう。この二つの震災は、被害の規模も性質も大きく異なる。だが、被災者はともに、簡単には言葉にできない深い共感をもっていたと僕は思う。17年という時を生き抜いた神戸の人たちは、17年後の東北の人たちの思いを先取りして、悼んだことだろう。

僕も、神戸から遠く離れて、死んだ友人の無念をあらためて悼む。東北から遠く離れて、津波が奪った記憶の膨大さに、考える言葉さえ止まってしまう。さらに福島から遠く離れて、原発周辺から追われた人々がこれから生きる国内亡命を、17年前には想像もできなかった自分の不明を恥じる。ちなみに10月23日は昨年大きな被害を出したトルコ地震の日付。僕も調べ直して、初めて思い出した。あらゆることを記憶にとどめることはできない。だから、せめて1.17と3.11をつないで、自分の経験と記憶の意味を考え続けていきたいと思う。日本に生き続ける者としてのささやかな試みとして。

 

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1975 年大阪生まれ。トゥールーズとパリへの留学を経て、現在は金沢在住。 ライター名が示すように、エヴァリー・ブラザーズをはじめとする60年代アメリカンポップスが、音楽体験の原点となっています。そして、やはりライター名が示すように、スヌーピーとウッドストックが好きで、現在刊行中の『ピーナッツ全集』を読み進めるのを楽しみにしています。文学・映画・美術・音楽全般に興味あり。左投げ左打ち。ポジションはレフト。