フランスからグローバリゼーションとオルタナティブを考える新しいフランス学

心の声に耳を傾けて シモーヌ・ヴェイユの人生

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朝刊の海外ニュースの片隅にその人の訃報が小さくのっていた。シモーヌ・ヴェイユ。89才。フランスの政治家。欧州議会の議長も務めた。先頃のドイツのコール元首相の訃報と比べると、なんとも地味な扱い。日本では「無名」にちかい人なのだ。

しかし、フランスでは、「最も尊敬する人」として多くの人がその名を挙げる。彼女の顔と名前を初めて目にしたのはフランスのモード雑誌だったと言えば、いかに幅広い層の人から支持されているかがわかって頂けるかと思う。

かといって、アメリカのジャッキー・KやラガルドIMF専務理事のようにその着こなしとかキャリア女性のカリスマといったことがヴェイユ女史を特別な人にしているわけではない。みんなが今も拍手を惜しまないのは、その仕事の重さゆえだ。ジスカール・デスタン大統領時代に保健相として、妊娠中絶の合法化に尽力した人なのである(1974年に発効したこの法律は、その名を取って「ヴェイユ法」と呼ばれている)。

Simone Veil (1984)カトリックの国であるフランスでは、それこそナポレオンの御代から妊娠中絶は犯罪だった。そもそも法以前に、それはあってはならない「罪」とみなされ、タプー視されてきた。そんな歴史ある「良識」に立ち向かい、合法化を押し進めるのは本当に大変なことだった。ほぼ男性で占められた議会はもちろんのこと、世間からはごうごうたる非難を浴び、家族ともども嫌がらせを受けた。自家用車にはハーケンクロイツが落書きされ、人殺しとののしる匿名の手紙が山のように届く。中には、妊娠中絶をホロコーストにたとえて中傷する輩もいた。「マダム、あなたは胎児を、強制収容所の子供達のように焼却炉に送るのですか?」このような言い草は、激しくヴェイユを傷つけた―そこで焼かれた人々の姿を彼女はその目で見ていたから。フランスから移送され生還することができた数少ない「アウシュヴィッツの生き残り」の一人だったのだ。

1944年3月、ニースに住むユダヤ人一家の末娘、シモーヌ・ジャコブは母と姉とともに家畜用貨車に詰め込まれフランスを追われた。まだ16才、数日前にバカロレアの試験を終えたばかりだった。別の列車に載せられた建築家の父と兄とはそれっきり。この世からあとかたもなく消えてしまった。

三日後にようやく列車が止まり、下ろされた場所はアウシュヴィッツ強制収容所。「子供」の年齢であるシモーヌは選別され、まっすぐガス室へ送られるはずだった。しかし、ブルネットの豊かなお下げ髪に輝く青い瞳を持つこの少女に目を留めた人がいた。収容所ではたらくポーランド人の女監視員は、ブロークンなフランス語でシモーヌに囁いた。「あんたみたいな若くてかわいい娘が殺されるなんてしのびない。私がなんとかしてあげる。」

年齢を偽ったシモーヌは、母や姉と一緒に収容所の外にあるドイツ企業の工場での労働に回される。ナチス親衛隊員用の食事を作るキッチンでも働いた。チフスにかかり弱っている母のために食材をかすめ取っては持ち帰った。しかし病は、それほどまでして守ろうとした母の命を奪ってしまう。

その死から数ヶ月後、解放されたシモーヌに連合国軍の兵士が年は幾つかと話しかけてきた。「何才に見えます?」逆に問いかけると、ためらいながら返ってきた答は「40代?」。髪を剃られ肉体的にも精神的にも極限状態まで追いつめられた彼女の姿は、兵士の目には中年以上の女性のように写ったらしい―まだ20才にもなっていなかったのに。

フランスに戻ったシモーヌは、中断させられていた勉強を再開する。パリ政治学院に進んだ彼女は、そこで学んでいたアントワーヌ・ヴェイユと恋に落ち1946年に結婚。翌年には母となる。しかし、学ぶ事は止めなかった。世に出て働きたいという強い気持があったからだ(彼女の母は、夫の強い希望で結婚を機に研究の道に進む事をあきらめている)。妻として母として家を守っていればいいという夫の声を背中で聞きつつもあきらめず、1956年には、最難関の試験の突破し司法官となる。三男を出産したのと同じ年だった。

司法官としての初仕事は受刑者の矯正教育。ここで、収容される側であった過去の辛い経験が、はからずも活かされることとなった。自由を奪われたまま生きることの意味を知る人の視線から、受刑者のことを考えることができたのだ。その結果、女性受刑者の刑務所内での待遇の改善といった、受刑者に寄り添った仕事を積み重ねて行くことになる。特筆すべきなのは、アルジェリア独立戦争の最中に、刑務所内で虐待を受けていたアルジェリア人の女囚を保護し平等な処遇が受けられるよう動いたことだ。世間の空気ではなく、私の良心の声に耳を傾け、そうすべきと思ったことのために最善をつくす。シモーヌが生涯持ち続けたこのスタンスは、司法官時代の仕事から形成された。

その後も女性の親権取得や私生児とその母親に配慮した法律の導入など、地味ながら着実に前向きな仕事を積み上げてきた彼女が政治の世界に足を踏み入れる事になったのは、偶然からだった。実業界で名を知られていた夫に政界入りを促そうと訪れたジスカール・デスタンが、シモーヌに惚れ込みいきなり保健相に大抜擢したのだ。

保健相になるということは、ジスカール・デスタンが掲げる妊娠中絶の合法化の旗ふり役としてフランス社会と対峙することを意味する。内閣はおろか、政権与党内でも反対の声が上がっている。しんどいだけの役回りだが、彼女はこれを引き受ける。望まない妊娠をしたフランス女性は、国外の病院にかかる伝手と経済力がなければ、法外な金を払って闇で手術を受けるか、危険を犯して医療の埒外の手に身をゆだねるしかない。何人の女性が命を落としてきただろう。いずれの「方法」も選べなかった人は、全てを独りで引き受け生きてゆかなければならない。良心の声にシモーヌは従ったのだ。

法案を可決するかどうかの採決を前に、議会で集中審議が行われた。国会議事堂前には反対派が押し寄せ、愛人を外国へ「旅行」させておきながら平然と反対を唱える議員達が座る議会の演壇に立って、彼女は演説した、「毎年30万件もの中絶が秘密裏に行われ、この国の女性達の体を傷つけ、癒える事のない心の傷を負わせていることから目を背けてはいけません。」「何の心の苦しみもなく妊娠中絶を選択する女性はいません。人々は女性の声に耳を傾けなければなりません。そこには常にかなしみがあるのです。」政敵である左派野党の後押しもあり、法案は可決成立する。

フランス政界から欧州議会へ転じたのも、心の声によるものだろう。気がつけば戦争の最中にいた経験を持つヴェイユは、平和がいかに尊いものであり、国々の双方の努力なくしては生まれないものであることを議長としてアピールしてきた。ホロコーストの生存者としても発言を続け、ナチスに加担してユダヤ系フランス人の移送を許したことの責任を取ろうとしないフランス政府の非を問い続けた。

後年、時にとても厳しい状況に置かれながらも信念をもって働き続けた力の源をは何かとたずねられて、亡き母のおかげだとヴェイユは答えている。「母はいつも私の側にいてくれました。」息をひきとる寸前まで前向きな気持と生きることへの強い意志を示し、娘達を鼓舞し続けたという。グレタ・ガルボににた面差しの、優しい母だったそうだ。

ヴェイユ法施行からずいぶん時が経ったころ、買物中のシモーヌは見知らぬ男性からこんなふうに感謝されたという。「あの法律は、男性にとっても大きな一歩となりました。」「嵐」の中でも失われなかった彼女の信念と誠実さは、フランスの人々をここまで変えたのだ。

シモーヌ・ヴェイユの声や姿を見たい方はこちらをどうぞ。

www.youtube.com/watch?v=prNtl2OOIN4

ヴェイユ法成立の頃のヴェイユの日々は近年フランスでドラマ化された。エマニュエル・ドゥヴォスが彼女の役を演じている。

 

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大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。 門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。