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「日本では今も原子力が信仰されている―ラドン温泉の効能とキュリー夫人祭で知られる三朝温泉を訪ねて」

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以下は、8月11日「ル・モンド」に掲載された「日本では今も原子力が信仰され続けている―ラドン温泉の効能とキュリー夫人祭で知られる三朝温泉を訪ねて」の全訳である。

鳥取県の三朝は日本の大半の温泉町と同じように、緑の山に囲まれた谷の中心に位置し、国宝である仏教の寺、三佛寺を誇りにし、静かな川が流れている。温泉地での滞在を真に文化的な事柄と考えている日本人に、とても貴重な安らぎの時間を提供している。800年以上前から人々が頻繁に訪れている三朝は「3つの朝」という意味である。伝説によれば、三日間この温泉を利用すれば、すべての病が治るということだ。

この村の温泉の他の温泉と違いは泉質にある。極度に放射性の強い物質であるラジウムが世界で最も多く含まれているという。その珍しさによって、2010年には37万人の観光客が訪れ、この地方出身でユネスコの日本代表のサワダレンゾウが、1950年代にこの村に対して、1898年にラジウムを発見したマリー・キュリー(1867-1934)と関係を結ぶように提案することになる。

このようにして1955年以来三朝は「キュリー祭 Festival – Marie Curie 」を開催している。8月7日、日曜日に行われたこのイベントのおかげで、フランスとの関係をさらに深めることができた。1990年には Lamalou-les-Bains (Herault県)と姉妹都市になり、毎回キュリー祭にフランス代表を迎えるほどになった。今年は大使館のビジネス担当のフランソワ・グザヴィエ・レジェだった。伝統はそういうことを望むものだが、キュリー祭はポーランド出身のフランス人科学者に対する敬意を表す祝いと儀式の機会である。儀式は川のほとりに建てられた像の足元に花束を置くことから始まり、祭式の様相を伴った祝賀がそれに続く。

少しキッチュなシックさのあるブランアール・ホテルのサロン。そこにはマリー・キュリーの威厳のあるポートレートがあるのだが、そこで執り行われる儀式には選ばれた人々が集まった。地方代議士であり元大臣で保守派野党の大物である石破茂、町や地方の議員、原子力関係者。とりわけJAEA (日本原子力研究開発機構)の代表者たちは、このイベントのパートナーである。

子供たちもマリー・キュリーに敬意を表すために招待されており、そのうちの何人かはノーベル賞を2回受賞したマリー・キュリーの作文コンクールに参加する。今年この祭りは日本人に強い反原発の感情を育てた3月11日のカタストロフと福島の原発事故の文脈の中でおこなわれた。ただしキュリー祭の参加者たちは福島の問題と三朝が生み出しているラジウムとガス(ラドン)の放射能の問題を注意深く区別した。「混同してはいけない」と放射能に対するマリ・キュリーの情熱を呼び覚ました後にレジェ氏は言った。これは「原子力、しかしより安全な原子力」に賛同する石場氏よっても確認された点である。

鳥取県知事の平井伸治は「この地方の発ガン率は低い」と、三朝町の助役の森脇光洋は「私たちのラドン温泉は血行に良いし、リウマチにも効く。それは細胞を若返らせる。岡山大学の研究によれば、放射線は健康に害はない」と言う。村の中心にあるポスターにも同じことが書かれ、その近くには有名な源泉のひとつがある。

この美しい全員の意見の一致はここから数キロメートルのところ、鳥取と岡山の県境にある、人形峠でも確認される。看板には「1955年11月12日ここで日本で唯一のウラン鉱脈が発見された」と書かれている。今日その場所にはウランの研究所と濃縮プラントがあり、自衛隊によって高度に警備されている(※1)。

またそこには JAEA によって運営されている、放射能や原子力のすべての秘密を学べる博物館がある(※2)。その博物館は福島の事故も、鉱山労働者たちの健康問題にも言及しない。京都大学の研究によれば鉱山労働者の7%が肺がんを発症したと言われている。それは国際基準の1万倍高い濃縮されたラドンに長期間さらされたことによる。しかしながら博物館には緑がかった光を放つウランが混ざったガラスのオブジェがここには展示されている。

人形峠は日本の原子力の歴史の重要な節目になっている。そのひとつの歴史は第2次大戦前、ニシナヨシオという物理学者の仕事から始まった。とりわけ彼は、原子力の業績でノーベル賞を受賞したニエル・ボウという人のもとでヨーロッパで何年も過ごしたあと、1931年に東京の原子力研究センターを設立した。1941年4月に東条英機首相が原子力兵器を開発することを命令した。今日北朝鮮に位置する港町、興南(フンナム)には日本の原子力研究所があったが、それは戦争の終わりごろにソビエトの手に落ちた。ある人々が主張するにはある原子力兵器が戦争の終わりの数日間にかけてテストされたらしい。この間日本は自分の国内や、自分たちが支配した領土、マレーシアにまでウラン鉱山を探していた。

人形峠の鉱山の開発は日本列島における原子力の発展を伴ったが、それは1955年に原子力エネルギーに関する重要な法案の採択とともに本格的に始まった。それは原子力エネルギーの平和利用に関する国連の最初の会議の後である。日本政府にとって当時重要であったのは「人間の社会の幸福と国民生活の向上」であった。それは「原子力の研究と開発と使用を奨励すること」によってである。広島と長崎の原爆投下の生存者たちのためらいにもかかわらず、そこから民間によって原子力は開発されることが可能になった。1963年に最初の電気の実験的な生産が行われ、1971年には福島に最初の商業炉ができ、それが今の危機の中心になった。

平行して強力なロビーとなりつつあるものが形成された。その強力なロビーとは、高級官僚、電力会社、研究者たちを集めたものであるが、沈黙のうちに多くの問題を表面化させず、最小限にすることを可能にした。その中に、1988年の人形峠で活動家たちが発見した鉱山開発の非常に放射線の高い3000トンに及ぶ残土の問題がある。その法的訴訟は続き、2005年にJAEAの有罪によってようやく収束した。今日三朝は心配していない。森脇によれば、福島の事故が起こったあとも三朝の観光客の数は減っていない。しかしながらこの間、菅直人首相は8月9日長崎の原爆投下の66年の記念式典を利用して、もはや原子力に頼らない社会に移行するという彼の意思を確認した。

Au Japon, le culte de l’atome se pratique toujours
Le Monde Jeudi
11 aout 2011/08/28
Philippe Mesmer

※1) 鳥取県側には1955年に発見されたウラン鉱床がある。一時はウラン濃縮原型プラントも建設され、盛んに国産資源活用の道も探られた。しかし、品質が低く採算に合わないため、採掘は中止。2001年にはウラン濃縮原型プラントも閉鎖。閉山までに採掘された鉱石は約9万トンで、濃縮され取り出されたウランは84トンであった。それらは燃料に加工され純国産燃料として昭和54年の出荷を手始めに日本各地に出荷され、主に実験などに利用された。現在は日本原子力研究開発機構人形峠環境技術センターが開設され、研究が行われている。(wikipedia より)
※2) 人形峠展示館、人形峠アトムサイエンス館などの施設がある。

www.jaea.go.jp/09/xningyo/
www.pref.okayama.jp/seikatsu/kansei/atom/atomscience/

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