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フランスにもイジメが存在する!? アンドシーヌの「カレッジ・ボーイ」が暴く現実

text by / category : 音楽 / 政治・経済

恐怖は徐々に高まっていく。最初は授業中に少年に紙くずを投げていたのが、最後は少年をキリストのように十字架に磔にする。子供たちはスマートフォンでそれを撮影し、大人たちは目隠しをしている。フランスのバンド、アンドシーヌ Indochine の最新シングル曲「カレッジ・ボーイ College Boy 」( ‘Black City Parade’ に収録)のクリップだ。6分の白黒の短編を製作したのは弱冠24歳のカナダ人監督、グザヴィエ・ドラン Xavier Dolan ― 彼は2009年のカンヌ映画祭で「僕は母を殺した J’ai tué ma mère 」という作品で注目を浴びた。

College Boy – Indochine(仏語歌詞付、映像を見たくない方はコチラで)

もちろん映像を衝撃的すぎると感じる人たちもいるだろう。フランスの音楽や映像作品の検閲機関である CSA はこれらのイメージは耐えがたい暴力として、昼間の音楽番組では流せないと判断した ― 「精査した結果、16歳以下の禁止、もしかしたら18歳以下の禁止になるかもしれない」。CSA は数年前にはマリリン・マンソンのクリップを18歳以下の禁止にしたが、同じような判断だ。ドラン監督の出身地、カナダのケベック州では、最大の音楽チャンネルが放映を禁止した。

Black City Paradeアンドシーヌのリーダー、ニコラ・シルキス Nicolas Sirkis は自分のやり方を次のように説明する。「これは根拠のないことではない。これは教育的な方法だ。それはちょうど交通事故に注意を払うようにショッキングな事故の映像を見せるのと同じだ。これは厳然たる事実なのだから」。実際、フランスの教育省の調査によるとフランスの学校では20人にひとりは酷いやり方でハラスメントを受けている。日本式に「イジメ」と呼んで構わないだろう。辛い気持ちに苛まれ、自殺に追い込まれることもある。不登校の20から25%がハラスメントを恐れて、学校に行かない。彼らが自殺する可能性は通常よりも4倍も高まる。ニコラはさらにつけ加える。「スキャンダルを追求したわけじゃない、このクリップが昼間のあいだテレビで流されないことはよく理解できる。検閲に反対すると声高に叫ぶつもりもない。しかし少年たちは不幸なことにこのクリップよりもさらにひどい現実を見ていると思う」。

一方、監督のグザヴィエ・ドランはこのビデオの暴力性を認識している。彼はインタビューで「好きなように撮っていい」と言われたと説明する。彼にとって、暴力反対のメッセージに曖昧さの余地はない。視聴者はビデオの人物に直接感情移入するからだ。「社会は群れの概念によって機能している。群れに属するか、しないか、それしかない。群れに逆らうことはとても難しいことだ。私は若者たちに暴力とはどのようなものか論理的に、具体的に示したかった。誰が犠牲者であり、加害者であり、傍観者であるか。学校でのハラスメントに対する戦いは、誰も見ないような30秒の意見広告よりも、もっとラディカルにやらなければならない」。このクリップは暴力を煽っているのではなく、暴力に反対していることは明らかだ。

学校のハラスメントの専門家は次のように言う。「このクリップはあくまで芸術的な表現で、その意味ではリスペクトされるべきです。重要性と深刻さを喚起するのに十分な芸術作品と評価するし、検閲の必要はありません。しかし残念なのは、このフィルムの極端な性格を強調しなくてはならないことです。それは耐えがたい暴力であることです。このクリップはどんな解決策も示していません。解決策はあります。学校ハラスメントは逃れられない宿命ではありません。このようなハラスメントに対して熱心な政策を講じたフィンランドなどでは3分の1に減少しています」

フランスの校内暴力はしばしばニュースになってきたが、自殺にまで追い込むような陰湿で執拗な日本のイジメのようなものは、フランスには存在しないと自分自身勝手に思っていた。日本は同質圧力が強く、その中でわずかな差異を見つけていじめると言われる。ヨーロッパ的な個人主義は互いに差異を尊重するのではなかったのか。日本とは違って、まだフランスでは学校や教師の権威が信じられているということだろうか。この不都合な真実を暴くと権威に傷がつくからなのだろうか。日本では多くの犠牲者が出て初めて、現実が明るみに出た。何が根本的な問題で、どんな対策を講じるべきなのかようやく議論されるようになった。

最近読んだ雑誌に、思春期が良くも悪くも人生全体に最も大きな影響を及ぼす時期だと書かれていた。思春期は個人のアイデンティティを形成する脳の発達段階にあたり、そのせいで私たちは思春期に聴いた音楽を一生聴き続けるし、思春期に貼られたレッテルを一生引きずり続ける。まさにその時期に、子供たちはいっしょくたにされて中学や高校という大きな箱に放り込まれる。彼らのあいだには必然的なつながりはなく、偶然そこに居合わせたにすぎない。こうした状況では攻撃性が発生しやすいと言う。確立された序列や力関係が存在しないので、彼らは独自の力関係を作り上げる。その決定要因は容姿や服装や運動神経などの単純な要素だ。多様性や複雑性を認め合うなど絶望的にありえない。

「カレッジ・ボーイ」の中で ‘Je serais trop différent pour leur vie si tranquille’ (僕は彼らの平穏な生活にとってあまりに違い過ぎる)と歌われている。いくつかの記事にはビデオの少年は同性愛によってハラスメントを受けているとはっきり書かれている。実はグザヴィエ・ドラン自身がゲイで、「僕は母を殺した」は彼のそういう半生を自伝的に描いている。彼の具体的な発言があったのかもしれないし、ビデオの中にそれを暗示するシーンがあるのかもしれない(歌詞の中の ouvrir tes jambs や le goût de lait sur ta peau などは性的な暗示なのだろうか)。またニコラ・シルキスは、法案成立後も勢いを増している「反同性婚デモ」を意識していたとも言っている。アンドシーヌは80年代に同性愛嫌悪をテーマにした「第三の性」という曲を発表していて、ニコラはテレビに出演した際に「あれから何も変わっていない」というコメントもあった。しかし今回は焦点を的確に絞り、全く質の異なる緊張感を生み出している。

ビデオの中で大人たちは目隠しをしている。それは黙認であり、GO サインだ。機動隊員が加害者の少年たちに発砲しようとすると、首謀者の少年は「あんたたちの敵は俺たちじゃなくて、あいつだろ」とうそぶくような表情で十字架の少年を指さす。自分は大人たちと価値観を共有している、大人の真似をしているだけだと言わんばかりだ。Youtube には「カレッジ・ボーイ」の動画が複数アップされているが、そのひとつに書き込まれたコメントは1カ月間で7000件を超え、若い世代の関心の高さを物語っている。書き込みの中には「自分も人と違うという理由でひどいハラスメントにあった」「学校時代は同じような地獄だった」という告白も多い。それらは同性愛が原因ではなく、むしろ、少し太っているとか、ささいな容姿に関わることで、日本のイジメと何ら変わりはない。学校という近代の象徴的な制度の疲弊が、国を問わないグローバルな問題になりつつあり、その意味でも日本は先進国というわけなのだろうか。

以下の記事を参照
Harcèlement à l’école : la violence du clip d’Indochine choque
Le Monde.fr | 02.05.2013

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posted date: 2013/Jun/01 / category: 音楽政治・経済
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