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『真白の恋』~トークイベントを終えて

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8月26日、神戸の元町映画館に坂本欣弘監督を迎えて『真白の恋』のトークイベントを開催した。今回はフランス映画ではなく、富山県出身枠で声がかかり、同郷トークが実現。たくさんの人に参加していただき、またサービス精神旺盛な坂本監督の撮影秘話なども聞けて、盛況な会となった。イベントの前にこの記事をアップしようと思っていたが、間に合わなかったので、イベントの内容を踏まえてアップすることにした。

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日本のヴェニス

いつからか「日本のヴェニス」と呼ばれるようになった射水市新湊地区。私がよく知っているのは1970年代の前半だが、その中心部を流れる内川は、小栗康平の『泥の河』(1981年)を髣髴させる暗いイメージしかなかった。そこが今や富山県内の重要なロケ地になっている。最近では石橋冠監督の『人生の約束』(2016年)や、福士蒼汰・本田翼主演の青春ドラマ『恋仲』(2015年)にも使われた。内川にかかる個性的な橋だけでなく、日本海側最大の斜張橋である新湊大橋など、フォトジェニックなモニュメントもある。それらの背後に雪に覆われた立山連峰を配置すれば完璧だ。

『真白の恋』で婚礼の舞台になり、『人生の約束』の「曳山まつり」が行われる放生津八幡宮は、私が小学生のとき、毎日野球をしに通った場所である。この神社は大友家持が国守として赴任してきたときにさかのぼり、境内にある家持の碑が2塁ベース代わりだった。今思えば、曳山まつりは混沌の祝祭空間だった。境内には露天商がひしめいていただけでなく、蛇女だの、ろくろ首だの、いかがわしい見世物も出ていて、まだ白い軍服を着た傷痍軍人が物乞いをしていたのだった。坂本監督は私より一回り若いが、仕事の撮影で八幡宮を訪れたときにその雰囲気に魅せられ、すぐに脚本家の北川亜矢子さんに脚本を依頼したと言うことだった。

『人生の約束』

『真白の恋』と同時期に同じ場所で撮影された石橋冠監督の『人生の約束』(2016年1月公開、DVD発売中:原作はロック評論家&小説家の山川健一)は、竹野内豊、江口洋介、西田敏行、ビートたけしら、錚々たる俳優陣が出演し、新湊を舞台に撮られた作品として外すことのできない大作である(坂本監督によると、『人生の約束』の製作費が10億円、『真白の恋』はクラウドファンディングで集めた1000万円)。ところで、「良い映画」を見終わったとき、エンドロールを見ながら、「人生ってそうだよな」という実感が浮き上がる。「人生」は「社会、恋愛、田舎」という言葉に置き換えてもいい。人は映画を見ることで、普段は忘れている、生きることについて意識し、生きることに対する共感を得る。だから映画において「真実らしさ」は何よりも重要なのだが、『人生の約束』にはその真実らしさが欠けていたように思える。何が問題だったのだろうか。実際トークイベントは『人生の約束』をディスる会になってしまった(ごめんなさい!)。

『人生の約束』は、江戸時代中期から続く放生津曳山祭をめぐる物語で、財政難の四十物町が、新興商店街のある西町に曳山を譲渡しなければならなくなる。「曳山につながる」(=曳山を引く)ことは「先祖とつながり、友とつながり、大地とつながる」ことだと言うセリフが表すように、濃密な共同体の存在が示される一方で、現在の富山は北陸新幹線によって2時間半でつながり、スマホで常時東京とつながっていて、高速でユビキタスなコミュニケーションに飲み込まれている。実際、竹野内豊が演じる東京男は北陸新幹線で瞬間移動するようにやってくるし、仲違いした親友の康平とは心理的な抵抗によってすれ違ってしまったが、康平の娘とはスマホでつながり、康平に対するわだかまりを解く導き手となる。

また「殴られ、殴り返す」という、ありがちな男の友情を通して康平の義兄(江口洋介)と和解し、康平の代わりに共同体に招き入れられ、最後には「曳山につながる」。ちょうど新幹線やスマホで人や場所がスムーズに「つながって」しまうように。そして登場人物たちは一様にオープンで、ポジティブで、物分かりがよい。それは祭りというハレの舞台に向かって収れんするために必要な歯車なのかもしれないが、そのようなコミュニケーションの透明度の高さと、ドミノ倒しのような展開のスムーズさは、映画と言うよりは、「連続ドラマ」的と言えるだろう。その意味では有名なドラマ作品を手掛けてきた、石橋監督の面目躍如なのである。

「旅の人」=観光客

しかし『真白の恋』はそのように展開しない。富山にはよそから来た人間を「旅の人」と呼ぶ習慣がある。よそ者を共同体の成員から排除する態度、よそ者に対する恐怖心の表れである。真昼の父親は最後に東京男(油井景一)に謝られても、見事なくらいに何も言わない。ここに方言の問題も関わってくる。『人生の約束』で室井滋ら、富山県出身者が富山弁をまくしたてるのに対し、坂本監督はあえて方言を使わなかったそうだ。確かに饒舌に富山弁をしゃべれば、富山らしくなるわけではない。真白の父親の厳しい表情と寡黙さこそ、田舎の言語なのである。押し黙っているかと思えば、突然怒鳴り散らす。そして頑固に聞く耳を持たない。

真白の兄も油井に対して一方的な被害者意識しか持てない。真白をバカにしているだけと思っている。ふたりとも、自分からコミュニケーションを遮断しながら、よそ者とは分かり合えないと「想像的に」思いこんでいる。一方、油井も謝るだけで、真白との関係を説明しない。「社会的な不適応を言うなら僕も障がい者だ」というセリフが象徴するように、実はカメラマンの油井もコミュニケーション下手で、そのせいで仕事で割を食っている。油井が真白に共感するのもその点なのだ。真白の常識から少しズレた行動を知的障害のせいだと知らず、自分を重ね合わせる。

絆の息苦しさ

また田舎ではみんな知り合いで、何かすると近所の人が見ているし、すぐにうわさになる。みんな見ている、みんな知っている、息苦しさ。それはみんなが分かり合っていることを意味しない。共同体の外に出たい、あるいは外部を知ってしまった人間にとって、それは抑圧以外何物でのなく、欲望を、言葉を封じられることだ。真白はかつて誘拐事件に巻き込まれたことがあり、真白の家族はそれを恥じ、負い目を感じて生きている。東京帰りの真白の従姉は、東京で男に捨てられ、Uターンして美容師として働いている。そのことを近所の人はみんな知っていると、真白の父親は彼女をなじる。富山には娘を手元において外に出さないという方針の家も多いと聞くが、家父長的な発想からすると、彼女たちには主体性も、自由もなく、そしてすでにスティグマを背負っている。油井と会っていて、連れ戻された真白を家族が出迎え、「みんな心配したんだよ!」と口々に言う。この言葉は愛情から出ているのかもしれないが、田舎を知るものとしては、呪縛の言葉として二重に響く。真綿で首を絞められるような、ある種ゾッとさせられるシーンでもある。(写真 ↓ 内川にかかる東橋)

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時間を操るアート

今年の2月、実際にロケ地を歩いてみたが、ほとんど人と出会うことがなかった。『真白の恋』に登場する写真館や自転車屋のあたりは、私が小学生のころは、人通りの多い繁華街だったが、開いている店はほとんどなく、静まり返っていた。曳山まつりを続けられるほどの人口や人のつながりを維持できるのか心配になるほどだ。町を離れた出身者が祭りの際に帰ってくることはあるようだが、『人生の約束』はシーンの全体を通して人口密度が高い。石橋監督の念頭には一昔前の新湊が念頭にあったのではないか。新興の商店街のある町に曳山を譲渡せざるをえなくなるという設定も、1970年代ならあり得たかもしれないが、町が全体的に沈んでいる状況ではあまりリアリティがない。失われつつある共同体の中で、なお紡ぎ出される家族のささやかな絆と成長。これがこの町の等身大の「真実らしさ」なのである。

本家のヴェニスは海に沈んでしまうと言われ続けて久しいが、日本のヴェニスの風景も消えゆくようにはかなげである。『真白の恋』は、そのようなさびれた空気と静かな時間の流れを確実にとらえている。そして自転車や船の適度なスピードが、動きのない漁師町の風景に絶妙なテンポを与え、真白のコミカルな動きともシンクロする。映画は時間を操るアートだということも一緒に思い出させてくれる。

生産性ではなく関係性

トークイベントではどのシーンがいちばん泣けたか話題になったが、私たちは特に、ブレーキをかけることを知らない真白の感情の強さが印象付けられる。ピュアな感情の発露を切なく感じる一方で、それはある意味爽快に心に残る。私たちはあんなふうに感情を解放することができないからだ。しかし油井はあっさりと別れを告げる。彼は東京から雑誌の仕事で写真を撮りに来たが、観光客の立場を併せ持っている。東浩紀が『観光の哲学』で書いているように、観光客は気まぐれで、無責任なものだ。ときには土地のコードや事情を知らない傍若無人さや、勝手な思い入れで、立ち入ってはいけない場所に土足で入り込んだりする。

また、立山連峰のような大自然に包まれると、「どうでもよくなる」という油井のセリフがある。自然は白紙状態なので、そこに差別は存在しない。自然に差別を書き込むのは人間社会だ。同時に、ややこしい社会を生きる辛さをまるごと受け止め、白紙に戻すようなイニシエーションの役割を果たす。とはいえ、油井は大自然の中で癒しを得たのかもしれないが、真白は決してそうではない。真白は共同体に庇護され、何も意識しない存在だったが、「旅の人」によってそれまで知らなかった自分の感情に目覚めることになった。そして同時に自分には越えられない枠があることを絶望的に知った。「私が普通じゃないから?」と泣きながら問いかけるが、男は無言のままだ。普通の人間なら失恋は修復可能な、成長のための傷かもしれないが、「真白の恋」はそうではない。

真白が犬の散歩をしている最後のシーンがとても好きなのだが、それでも真白は以前とは違った地点に着地したのだ。両親も真白に促されて、少しづつ心を開く。深い雪の中からようやく顔を出したくらいに。去年、相模原の障害者施設で酷い事件が起こったが、障害者を個人の生産性という観点から見るのではなく、真白と家族のように分厚い履歴を持ち、互いに成長をもたらすような関係性によって計られることを思い出す必要がある。

 

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