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『沈黙』の映画化は成功したか?―スコセッシが描く遠藤周作の世界―

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マーティン・スコセッシと言えば、初期には『タクシー・ドライバー』(1976)や『レイジング・ブル』(1980)といった斬新な作品でハリウッドの話題を独占し、その後も『カジノ』(1995)や『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)といった大作を連発し、近年では『ディパーテッド』(2006)で遂にアカデミー監督賞を受賞、コッポラやスピルバーグと並ぶアメリカを代表する映画監督の地位を確立したとされている。その後も旺盛に新作を発表し続けている彼が遠藤周作の『沈黙』を映画化するという情報を得てから、どれほどの時間が過ぎただろうか。あまりにも時間がかかった為、「企画が流れたのでは?」と思った昨年半ばに「2017年公開決定」の知らせが届き、この作品に期待する者はかたずを飲んで公開日を待ちわびたに違いない。

他方、遠藤周作の『沈黙』(1966)と言うと、世界的に読まれているこのカトリック作家を代表する長編小説であり、彼自身の作品群の中では中期の思想――神の沈黙――を最も如実に示したものと専門家からも見なされている。その小説としての完成度から言っても現代日本文学の最高峰に位置するような作品を、「ハリウッドの映画監督が映画化して大丈夫なのか?」、と誰もが考えたに違いない。しかしながら、このスコセッシという監督が、そのキャリアの初期から宗教に対する深い関心(『ミーン・ストリート』、『キリスト最後の誘惑』など)を示してきたということを知る者ならば、この映画化は当然のことのように受け止められたであろう。

沈黙 (新潮文庫)映画を観た者たちは、原作小説に対してスコセッシが示した真摯な姿勢に驚かされたのではないか。ほとんどの場面が原作通りに描かれており、付け加えられた場面や改変された場面はほぼないと言ってよい。それに加え、主人公ロドリゴを演じるアンドリュー・ガーフィールドはもちろんのこと、重要な役割を果たすフェレイラ神父に扮するリーアム・ニーソン、厳しい詮議を推し進める奉行井上筑後守を演じるイッセー尾形、通辞役の浅野忠信、そして物語の鍵を握るキチジローを演じる窪塚洋介に加え、信仰を持つ村人役の塚本晋也、ヨシ笈田、加瀬亮らに至るまで、完ぺきな俳優陣によって固められており、観る者は間違いなく圧倒されることになるだろう。

とりわけ、前半部分に登場するモキチ役の塚本晋也の演技は特筆に値する。塚本は、波打ち際に建てられた木製の巨大な十字架に括りつけられ、激しい波を何度も浴びるという拷問をかけられても信仰を捨てない村人を演じ切る。その姿には誰もが度肝を抜かれるのではないか。塚本と言えば、2015年に大岡昇平原作を映画化した『野火』においても監督を務めるばかりでなく主演もこなし、戦場において狂気に陥る兵士の心理を見事に表現したが、ここにおいても重要な役を文字通り「命がけ」で演じている(本人曰く、「死ぬかと思った」そうだが、スコセッシに対する宗教的な敬愛の念がこの熱演を可能にしたとのことである)。

あまりにも有名な小説なので、粗筋は最小限にとどめよう。敬虔な宣教師であったフェレイラが日本で棄教したという情報がポルトガルに伝わり、その真意を探るべく、ロドリゴらが日本に潜入。そこで苛烈な迫害の実態を目の当たりにし、信徒らの命と引き換えに、彼自身もフェレイラと同様に棄教をしなければならない状況に追い込まれる、という展開である。映画でのキリシタンに対する迫害の場面の凄まじさには誰もが戦慄させられるだろうが、これは遠藤の原作通りであり、実証的に調べ上げられたものだ。このようなことが現実に行われていたということを考えると、迫害も含めた宗教的非寛容にはまともな論理が通用しないことが明瞭に分かる。

優れた映画だが、二点、問題がある。まず、映画のクライマックスで主人公のロドリゴが踏み絵に足をかける場面だが、ここは評価が分かれるであろう。ロドリゴが自らの足の下にある、踏み絵に刻まれたキリストの顔を見つめると、どこからともなく声が聞こえてくるという、あの場面だ。原作では以下のようになっている。

「司祭は足をあげた。足に鈍い思い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」(遠藤周作『沈黙』、新潮文庫、平成23年、268頁)

ここは、原作が刊行された際にカトリック教会が最も問題視した部分だ。確かに、恐らく、最も解釈が分かれる部分であると同時に、映像化の最も困難な部分であろう。原作では、これを司祭の「心のなかの声」のように描いているように思われるが、スコセッシは明確に「別の何者かの声」としてオフ・ヴォイスで挿入している、という点が異なっている。このように、「神の声」を可聴なものとして表現することに対しては、神学的にはともかく、映画の演出としてはどうしても疑問が残ると言われても仕方がないであろう。

そして、もう一点。原作では少なくとも明確には示されていない主人公ロドリゴが亡くなった後の場面――映画の最後の場面――において、スコセッシが施した一つの仕掛けだ(これはこの映画の核心部分なのでここでは明かさない)。この部分はスコセッシ自身による解釈であり、これに関しても遠藤周作の研究者からは疑問の声が上がるかもしれない。しかし、カトリック教徒であるスコセッシとしては、このような形でしか納得できる終わり方を考えられなかったという点も理解できる。この部分は、この作品を観た者に投げかけられた最後の問いとも言える。

しかし、いずれにせよ、極めて真摯な姿勢でこの映画が作られたことは間違いがなく、恐らく日本文学が外国人の手で、これほど精緻に、一寸の隙もなく映画化されたことはかつてなかったと言っても過言ではないだろう。それはやはり、スコセッシのような日本文化に対する深い理解者がいたからこそ可能であったのかもしれない――彼が日本映画から極めて多くのことを学んだと述べていることは、いまや周知の事実だろう――。その意味では、『沈黙――サイレンス――』の誕生によって、世界映画史の一つの画期となる作品が誕生したと取り敢えずは言えるのではないだろうか。

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普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中