フランスからグローバリゼーションとオルタナティブを考える新しいフランス学

ディオール兄妹の戦争

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1944年8月15日、聖母昇天祭の祝日。じりじり照りつける夏の大陽が沈みパリが闇に包まれた時、パンタン駅から貨物列車が出て行きました。積み込まれていたのは人間。レジスタンスに加担したとして逮捕され、市内の幾つもの刑務所に収容されていた2,457人もの人々が、ドイツ国内の強制収容所へ移送されていったのです。数百人の女達も含まれていました。覗き窓が一つあるきりの貨車に身動き取れない程詰め込まれ、ひどい暑さとひといきれのあまり服を脱ぎ、汗まみれの下着姿というありさまで。動き出した列車からは、人々が唱和する『ラ・マルセイエーズ』が流れてきたと言います。パリ解放の、ほんの数日前の出来事でした。

その中には、ファッション・デザイナー、クリスチャン・ディオールの末の妹、カトリーヌがいました。2,000人を超える人々が関わった地下抵抗組織マッシフ・セントラルの一員として6月に逮捕され、獄に繋がれていたのです。彼女がレジスタンス活動に加わったのは1941年、24才の時。恋に落ちた相手がたまたま組織の設立メンバーだったということもあったとはいえ、人生を左右する重い決断でした。

当時のフランスでは、ドイツ軍の占領下様々な制約が課せられていたものの、平穏な生活を営むことはできました。ひたすら耐え忍び、禁じられていたBBCのラジオ放送をこっそり聞いて連合国軍がドイツ軍を破りじりじりとやって来るのを待つ―多くの普通の市民が選んだのはそんな暮らしでした。しかし、その選択肢を捨てレジスタンスに参加した人々には、日々「死」を覚悟する生活が待っていました。

ゲシュタポをはじめとする占領ドイツ軍は抵抗勢力を根絶やしにすることに血道を上げており、逮捕されれば苛烈な尋問が待っています。拷問に屈して情報を漏らせば、さらに犠牲が広がる―組織を、仲間を守るために、関与の有無はおろか自分の名前すら明かす事なく命を落とす人が少なくなかったといいます。ある日突然姿を消し、誰にも知られる事なく獄死したレジスタンスの活動家達が、今もフランス各地にひっそり眠っているのです。「解放」の日がいつになるのか全くわからない状況―それでもカトリーヌは、組織の歯車の一つとして生きる事を選びます。

属していた組織は、ドイツ軍の兵力・武器・動向といった軍事情報を取り扱う機関で、カトリーヌは秘密情報をレポートにまとめ、運ぶ任務についていました。自転車であちこち駆けずり回り、指定された場所に行き情報を手渡すのです。同じ組織の仲間は、当時のカトリーヌについてこう回想しています。

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Granville – Maison et Musée de Dior“. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Commons.

「私たちは、自転車の上で暮らしていたといってもおおげさでないくらい、毎日毎日ペダルを漕いで走り回っていました。午前中は数名の仲間のもとへ、午後は秘密会議が開かれている場所へといった具合に。カトリーヌは、自転車に乗りやすいようロングスカートを切って長いスリットを開けていました。ニットの帽子に、お母さんからのお下がりの短い毛皮のジャケットをはおり、長いウールの靴下をはいて、少女のようにかわいらしかった。街路を駆け抜けるその姿を、男たちが目で追っていましたっけ。』

取り締まりは厳しさを増す一方で、昨日は一人、今日は二人と仲間たちが逮捕され、消えてゆきました。非情な現実をかみしめる日が増えてゆきます。それでも、カトリーヌは働きつづけました。空家同然になっている兄クリスチャンのアパートを拠点にして(仕事場にこもりきりだったクリスチャンは妹が自分の部屋を何に使ってるのか知りませんでした)、ゲシュタポが乗り込んで来る日まで。

口を割らなかったカトリーヌは獄中に捕われたまま、移送の日を迎えます。クリスチャンは顧客であるドイツ軍のつてをたよりに何とか逮捕された妹を救い出そうとしましたが、果たせませんでした。彼だけではありません。様々な人々が、ドイツへの移送を止めようとあらゆる手を尽くしました。刑務所から駅へ向かうバスを故障させたり、列車の走行を阻止する妨害工作もなされました。ついには中立国スウェーデンの領事ノルドリングが、パリ占領軍の指揮官コルテッツ将軍との交渉に成功し、フランス国内で捕われているユダヤ人、政治犯全員を解放し赤十字の保護下に置いてよいという約束を取り付けます。しかし、この取り決めがなされた時点で、貨物列車は国境を越えドイツ国内に入ってしまっていたのでした。クリスチャンは、無事を祈りひたすら待ち続けました。「妹さんは戻ってきます」という、千里眼の言葉だけを信じて。

カトリーヌは女囚専用の強制収容所レーゲンスブリュックへ送られ、兵器工場で働かされました。慢性的な飢え、伝染病が蔓延する劣悪な生活環境、そして常に死と隣り合わせでいることを強いられる目を覆いたくなるような日常を、彼女は生き延びます。幾つかの収容所を転々とした後、1945年5月に解放され、幸運にもパリに戻ることができたのです(あの夏の日に移送された2,457人の仲間達のうち、フランスへ帰ることができたのはわずか数百人でした。)。自分と年が変わらないほどに老けこみ、面やつれした12才下の妹を見たクリスチャンの胸中はどんなものだったでしょう。食料難の中苦労して手に入れた食材で兄がせっかく拵えてくれた大好物のチーズ・スフレにも手をつけられないほど、カトリーヌは衰弱していました。収容所での日々は、それほど過酷だったのです。

妹がドイツ軍に逆らい命を危険にさらす日々を送っていた頃、クリスチャンはある意味ドイツ軍に「仕えて」いました。占領後も営業を続けていた数少ないクチュリエ、ルシアン・ルロンに雇われ、デザイナーとして働いていたのです(同僚にはピエール・バルマンがいました)。ドレスのデザインは、30代も半ばを過ぎた彼がようやく見つけた、情熱を傾けられる仕事でした。それまでのクリスチャンは、流され漂う人生を生きてきたとも言えます。裕福なブルジョワ家庭の次男として何不自由なく育ち、息子を外交官にさせたい両親の意向で名門パリ政治学院に進学、その方面の勉強はしたものの芸術への志向はやみがたく挫折。少しでも美に関わる仕事をと友人と共同経営の画廊を開きますが、やがて訪れた世界大恐慌のせいで閉店に追い込まれ、実家は破産。精神的、経済的な支えを失い、友人の家を転々とする無為の日々を送りさえしました。戦争により兵役についたためせっかく掴んだ雇われデザイナーの職をいったん失ったクリスチャンにとって、ルロンの下で再びデザイナーとして働く事は糧を得る手段以上の大きな意味を持っていたのです。滅多にアパートに帰らず、アトリエに入り浸っていたという日常からも、その意気込みが伝わってきます。

一方、ドレスを作るということは顧客を喜ばせるという行為でもあります。ルロンの上得意は、ドイツ軍人の妻や娘、秘書たち、ドイツ軍の取り巻きとなったフランスの女達でした。パリにはドイツ軍を中心とする「社交界」があり、庶民が深刻な食糧難に苦しむ一方で戦前と変わらぬ豪勢な食を楽しむ華やかな宴が開かれていたのです。仕事と割り切っていたとは思うものの、クリスチャンが複雑な立場に置かれていたことは想像に難くありません―レジスタンスの妹がいる身としては余計に。(パリ解放の時、ドイツ軍将軍の秘書は、街角でつばをはきかけられたことを記憶しています。パリで誂えたスーツを汚したのは、その服の仮縫いをしたお針子だったそうです。)

もろもろの事情を抱えた兄が占領下のパリでしていたことは、無抵抗で消極的に見えます。しかし、現在の視点から見れば、クリスチャンの行為—フレンチ・モードのドレスを作り続けたこと―は、フランスの文化を守る静かな戦いであったと言えます。パリ陥落前から、ナチスはベルリンをヨーロッパのファッションの中心地にしようともくろんでいました。(ドイツ軍占領を見越して有名クチュリエのメゾンがいくつも閉じましたが、ナチスにとっては願ったり叶ったりなことだったのです。)しかし、妻や娘達、恋人のパリモードへの憧れを吹き消す事はできませんでした。かつてほどの華やかさ、活気はないものの、手の込んだ優雅なドレスは作り続けられ、より美しい一着を生み出す創造性と技術が守られ、結局ナチスのもくろみは頓挫したのです。

1945年、ドイツは降伏し、長い戦争はついに終わります。クリスチャンは独立し、“ニュー・ルック”を発表、戦後のフレンチ・モードの代名詞と呼ばれるまでに登り詰めてゆきます―戦争をともに生き延びた、フランスのファッション業界とともに。カトリーヌは、その戦時中の活動と犠牲により、フランス政府からいくつも勲章を授かりました(そのうちの一つは、戦場で大きな功績があった兵士だけに贈られる特別なものでした)。療養ののち、彼女はレジスタンス時代からの恋人と、花を扱う商売を始めます。世界のあちこちにあるフランス領の国々から届いた花を卸す仕事で、朝4時にはレ・アールの中央市場にある店を開け働く、静かな日々を送りました。仕事から離れてからも、花は常にカトリーヌのそばにありました。2008年に91才で亡くなりましたが、プロヴァンスにある自宅の庭は、丹精して育てたバラやジャスミンといったお気に入りの花で埋まっていたそうです。

*華やかな兄の世界には足を踏み入れなかったものの、カトリーヌはクリスチャンと親しい関係にありました。ディオールの定番の香水『ミス・ディオール』の名前は、クリスチャンがアトリエでスタッフと新しい香水の名前を考えていた時に、兄に会いにきたカトリーヌがひょいと顔をのぞかせたことから着想されたそうです。

*2013年、この香水にちなんだ展覧会が開かれました。レジスタンスの女性達をモチーフにした作品も展示されたそうです。会場の模様はこちらでどうぞ

*TOP PHOTO “Christian Dior (Moscow exhibition, 2011) 26″ by shakko – Own work. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Commons –

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大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。 門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。