フランスからグローバリゼーションとオルタナティブを考える新しいフランス学

『テルマエ・ロマエ』と銭湯の作法

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今授業で『アメリ』のシナリオを読んでいる。アメリの父親は字幕では「アンギャン・レ・バン Enghien-les-bains の治療院で働いている」となっている。治療院の部分はフランス語で、les établissements termaux つまり温泉施設である。フランスには約100ヶ所の温泉があるが、温泉と言えば専門医を配置した温泉病院や医療施設である。

もちろん日本にも「湯治」という概念があるが、フランスには日本の温泉が喚起する露天風呂や地元の料理というレジャー的な側面はない。フランス有数の温泉地、ヴィシー Vichy の広場には洗い場のようにたくさんの蛇口があって、温泉を飲めるようにコップが備えつけられている。 隣のドイツには バーデン・バーデン Baden-Baden(温泉×2) という有名な温泉保養地があり、そこに立派な大理石のローマ風呂がある。温度の異なるお風呂やサウナの部屋を巡回し、最後に大きな毛布にくるんでもらって仮眠をとる(至福!)。まるでフリードリヒの絵のような、中世の古城にかかる月というゴシックな風景を眺めながらの温泉プール&スパも貴重な体験だった。

「古代ローマ人はお風呂が大好きだった」と『テルマエ・ロマエ』の作者ヤマザキ・マリは言うが、イタリアの温泉文化は昔と比べると衰退したということなのだろうか。イタリア、温泉とくれば、真っ先にタルコフスキーの映画『ノスタルジア』を思い出す。映画全体が霧と水に満たされ、息が詰まるくらい湿度の高い映画だったが、とりわけ湯煙に覆われた古代遺跡の中でお湯に浸かる姿が印象的だった(サルジニア出身の友達は小さいころ、廃墟が半分沈んだ海で泳いでいたと言っていたが、そういうのも憧れる)。

ヤマザキ・マリはリスボンに住んでいたときシャワーしか使えず、いつも寒い思いをしていた。そんなときはいつも日本のお風呂が恋しくなったという。フランスでも普段はシャワーで済ませる。しかし、シャワーかお風呂かというマテリアルな問題は些細なものでしかない。ヤマザキ・マリが古代ローマと現代日本をショートさせることで描出するのは文化の様式化、そして他者との関わりの問題である。確かにローマ帝国にとっての究極的な未来は今の日本なのかもしれない。パックス・ロマーナの時代に求められた文化的な理想は、アメリカの核の傘下の平和のもとで経済発展を遂げた日本の大衆文化やサブカルにおいて実現されたのかもしれない。時空を超えてやってくる究極の外国人の目を通して日本の日常に埋もれた様式が再発見される。それは『聖☆おにいさん』によって発見される日本の大衆文化やサブカルの細部や、スラヴォイ・ジジェクが究極の文明と絶賛する「女子高生のパンツの自動販売機」と通底するものだ。

銭湯が込む時間帯に行くと、あれだけの人間がひしめきあいながらトラブルを起こすことなく規律を守って風呂に入り、身体を洗っていることが奇跡のように思えないだろうか。「銭湯の作法の自然発生は銭湯の密度に依存する。裸という無防備な状態での密度が作法を現出させる」と社会学者の西澤晃彦は言う。番台に座る経営者は入浴客の領分に介入することはあまりない。外国人もいれば、入墨を入れた人もいるような、銭湯の客の多様性と異質性が、彼らと一定の距離を置かせる。番台から緩やかな監視の視線で銭湯の全体を見渡す。銭湯の作法は番台に座る者がとやかく言う問題ではない。最低限の介入にとどめ、客どうしのさりげない交渉や調停に任せるのだ。大声で歌ったりする人がいれば、誰かがそれとなく注意する。入墨をした恐そうな人がいたら適当にやりすごす(私が住む地域の銭湯は「入墨お断り」規定がないことに最近気がついた)。銭湯だけでなく、混んだバスの中の作法というものの確かに存在する。

1980年代に東京都心の下町の木賃アパートに中国人を初めとする多くの外国人がやってくるようになった。「銭湯に来る外国人」は文化摩擦の格好の題材になった。それこそ最初のうちは下着をつけたまま風呂に入ったり、洗い場で着替えたりする外国人もいたようだが、周囲の人が注意をしたり、身振りでアドバイスすれば多くの場合その場で解決できた。苦情もそんなに出なかったという。中国人が来る前は、地方から上京してきた若者たちがストレンジャーだった。そしてルシウスはまさに時空を越えてやってきた究極のストレンジャーである。『テルマエ・ロマエ』は比較文化の物語であると同時に、ストレンジャーを受け入れる作法の物語でもある。

銭湯では初心者にくどくどマナーを教えたりしない。「とにかく入ってみればわかる」。つまり「あとは周りの人が何とかしてくれる」という信頼がある。銭湯は長い時間をかけて経験的に確認され、選択されたストレンジャーとの共生の作法が、まるで自然発生的に実現される場所だ。ガラパゴスと揶揄され、歴史的にも排外的な印象の強い日本だが、こういう他者を受容する知恵と作法を持っている。いきなり日本の銭湯や温泉に出現するルシウスが、言葉が通じなくても、世話を焼いてくれる人が周りにいて、「お風呂上りに腰に手を当ててフルーツ牛乳を飲み干す」など、様式化された文化の細部にまでいざなわれる。そうやってルシウスは湯に浸かる快楽と作法の本質に触れていくのである。

『テルマエ・ロマエ』のサイトを見ると、「東京都浴場組合推薦」とある。先に引用した西澤晃彦の論考にちょうど「浴場組合と石原慎太郎は良好な関係にあるという。そこでは思想としてのアーバニズムとナショナルな物語のあいだの矛盾は自覚されていない」という件があった。つまり石原新太郎の外国人排斥的な発言は、人々の銭湯での寛容な振る舞いと相容れないということだ。しかしそれはあまりに自然なことなので自覚されない。それに加え、銭湯のようなソーシャルな作法を学ぶ場所は次第に失われつつあり、私たちは大勢の人間の集う場所での他者との調停を、権力や環境的な管理に丸投げしつつつある。電車に乗れば駆け込み乗車をするな、車内で迷惑行為をするな、とアナウンスにがなりたてられ、カフェに入れば、椅子の硬さや空調や店の構造そのものによって行動をコントロールされる。もはや練り上げられた作法によって動くのではない。そこには人と交渉する余地も、出会いやドラマが生まれる機会もない。 若い人こそ銭湯に行って欲しいと願うばかりである。

□関連エントリー:「聖☆おにいさん」 仏人も聖人も住みたくなるサブカル日本
□西澤晃彦「東京の銭湯」(in 『現代思想』2000年10月号)参照

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