フランスからグローバリゼーションとオルタナティブを考える新しいフランス学

フランスの埋葬事情~書評『これからの死に方』(1)

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フランスでは墓地が観光スポットになっている。初めてフランスに行ったとき、モンパルナス墓地、ペールラシェーズ墓地、モンマルトル墓地を回って、地図を片手に文学者たちの墓を探したものだった。またペールラシェーズ墓地にはパリで客死したドアーズのジム・モリソンの墓があり、墓の前では彼のファンのヒッピーたちが踊っていた。モンパルナス墓地にはセルジュ・ゲンスブールの墓があり、彼の曲にちなんでキャベツが供えられ、地下鉄の切符が散らばっていた。日本ではいくら有名人の墓であっても、それはプライベートなもので誰でもアクセスできるものではない。フランスでは墓は市町村が管轄するパブリックなものだから、観光スポットになりえるのかもしれない。シュルレアリストのマックス・エルンストの墓は小さなロッカー型だったが、あれは火葬されたあとの遺灰が収められていたのだろうか。

フランス人にとっての遺体とは

これからの死に方 (平凡社新書) 『これからの死に方~葬送はどこまで自由か』(橳島次郎著、平凡社新書)に日本の埋葬と比較するために、フランスの埋葬事情が書かれていて大変興味深かった。伝統的にカトリック国であるフランスは土葬が当たり前で、それはカトリックがキリストの復活を信じていると同時に、人間のからだの復活も信じているからである。しかしキリスト教の復活は「永遠の命」を獲得し、地上にいたときとは全く異なった身体の有り様になるので、遺体にこだわりがあるわけではない。とはいえ聖書の説くからだの復活に反するので、カトリックはかつて火葬にした人間を破門にしていた。それは1963年まで続いた。火葬が増えたのはつい最近のことで、1990年代になってからである。75年に0.4%に過ぎなかったのが、2001年には20%、2014年には37%に急増した。

しかし、フランス人は日本人のように火葬をしたあとの遺灰を大切にしない。遺灰を墓に入れることもしない。習慣的に遺灰というものに接したことがなかったこともあるのだろう。骨壺の扱いに困った遺族が、骨壷を家に放置したり、ゴミ箱に捨てたり、勝手に海にまいたりすることが社会問題になった。フランスで死者の尊厳を説く生命倫理法が1994年に制定され、火葬したあとの遺灰も尊厳をもって扱わなければならないと規定したが、それは何よりも増え過ぎた骨壷が適正に扱われるようにするためだった。

パリのカタコンブ

遺体に執着しないフランス人のもうひとつの例としてパリのカタコンブを思い出す。遺灰と同様に、人骨にも敬意を払っていないように見える。誰のものかわからない人骨をいっしょくたに積み上げて見世物にしているのだから。本来のカタコンブはローマ時代に迫害されたキリスト教徒が作った地下墓所だが、パリのカタコンブは、もともと採石場だった地下トンネルに無数の人骨を積み上げたものだ。5世紀からパリの中心に存在していたサン=イノサン墓地に何世紀にもわたって死体が埋められた過程で、墓地が巨大化し、衛生状態が劣悪になった。17世紀には常に数千の死体の腐敗が進行している状態で、死臭が漂い、疫病が広がる危険性があった。そしてついに1785年に隣接するレ・アル地区の再開発と一緒にサン=イノサン墓地の閉鎖が決まった。埋められていた大量の人骨は掘り出され、焼かれたあとに荷車に載せられてカタコンブに運ばれた。新しい納骨堂にすべての骨を納めるのに15か月かかったという。

かれこれ15年以上も前のことだが、私が初めてカタコンブを訪れたとき、バカなスペイン人がバックに頭蓋骨を入れて持ち出そうとして出口で捕まっていた。随分と大胆なことをするものだなと思ったが、スペイン人にとって倫理的にはあまり抵抗のないことだったのかもしれない。カタコンブは墓荒らしが頻発して一時閉鎖されていたこともある。しかし日本人にとっては著しくバチあたりな行為である。日本では適正な方法と手順で遺体を扱わなければ死者が怒って道連れにされることになっているから。

テロリストの埋葬も拒否できない

フランスで非キリスト教的で世俗的な火葬が増えたのは、葬送の簡素化を求める人々が増えたからである。先にフランスの墓地はパブリックな場所と言ったが、フランス革命まで冠婚葬祭をつかさどっていたカトリック教会から、共和国政府がそれらの業務を引き継ぎ、葬送に関しては1904年の法律で市町村の独占事業となった。つまり政教分離の過程で葬送も非宗教化されたわけだが、それでも100年かかった。

国は住民の葬送について、細かい義務を法律で市町村に課している。市町村は、遺灰をまくための用地と個人の身元を示した設備のある場所と、納骨堂や骨壺を埋葬することを認めた場所を用意し、また灰を撒き、遺灰を収める専用設備を確保しなければならない。もちろん市町村は全住民たいしてその義務を負い、住民がテロリストだったとしても拒否できない。事実、シャルリー・エブドの襲撃事件で銃撃戦のすえ射殺されたテロリストのひとりはランスに住民登録をしていた。ランス市長は墓地が過激派の聖地になるのを恐れて拒否したが(やはりフランスの墓地は性格上聖地になりやすいのだ)、国に指示されて結局ランスに埋葬されたという経緯がある。

そのような欧米的な心身観は臓器移植とも大きく関わっている。欧米で臓器提供が進みやすいのは、脳死が人間の死であると線引きし、そのように納得しやすい文化的な背景があるからだろう。ざっくり言うと、脳死の前提となる身体観であるデカルト的な心身二元論において、身体は機械であって、壊れた部品は取り替えれば済む。自然は人間の精神が征服し、コントロールする対象で、自分の身体さえその一部なのである。脳死とはつまり、人間にとって本質的なコントロール能力を失うことだ。その精神=心が身体から抜けてしまったときが死であり、残されたものは抜け殻にすぎない。それに加え、キリスト教において臓器提供は、隣人愛の精神にかなった慈善行為になる。困難の中にある隣人を助ける奉仕の精神にかなった犠牲的行為として、賞賛と尊敬の対象にさえなる。

日本人の心身観

一方、日本では臓器提供とその前提の脳死に違和感を抱くような身体観が根強く残っている。まず日本人は現代においてすら漠然と霊魂の存在を信じている。死者はあの世に行って仏になったり、ご先祖様になったりする。ちょうどお盆が終わった時期だが、あの世とこの世は日本人の中であいかわらず交信と交流を続けている。あの世へは五体満足な形で送り出す。死んだあとも頻繁に帰って来なくてはならないからだ。さらに「親からもらった身体」という濃密な家族共同体に根差した意識がある。家族や血縁者は血を分け、肉を分けている。「キレイなままあの世に送る」とか「死んでから痛い思いをさせたくない」という、情緒的なこだわりを持つのは、自分が肉親の遺体と分身のようにつながっていて、痛みさえも共有しているからである。

火葬をしている先進国は多いが、骨格が残る形で火葬にし、みんなで骨を拾う習慣のある先進国は日本以外にはないようだ。日本人はまた戦場や事故現場に遺骨や遺品を見つけにいく。それに何かが宿っていると考える。また文化人類学者が日本古来の葬送に見出すのは、人間はすぐに死ぬのではなく、「徐々に」魂が抜けていくという身体観だ。つまり脳死のような明確な境界はそこに認められない。日本の葬送の儀礼は、亡くなった人間が段階的に生者から死者へとその存在の内容を変化させていくための手続きなのだという。そのプロセスの中で死者としての資格を「徐々に」獲得していく。その手順を間違うと死者は怒って周囲の者を道連れにすると信じられている。

偶然にも佐藤優が『現代ビジネス』に遠藤周作の『沈黙』の書評を書いていた。マーチン・スコセッシが映画化して、今秋から公開ということで話題になっているようだ。『沈黙』では日本に2人のイエスズ会の神父が派遣されてくるが、ちょうど島原の乱の直後で、キリスト教は激しい弾圧を受けており、彼らもまた棄教しろと残酷な拷問を受ける。彼らは日本のことをキリスト教が絶対に根付かない「怖ろしい沼地だ」と言っているが、「沼地」とは、隔離された島国で神道と仏教とアニミズムが混然一体となって醸成された強固な文化のことだ。明治維新以後、日本は近代化の道を急速に歩み、欧米の先進国と共通の価値観を有していることになっているが、一方で他の先進国から人権意識や民主主義を欠いた国とみなされるような、非合理的で独特な振る舞いがドロドロした沼地の底から常に立ち現れる。

Gainsbourg Serge tombe.jpg
モンパルナス墓地のセルジュ・ゲンスブールの墓
By Myrabella投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7862933

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