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『永遠のピアノ』―奇跡の中国人ピアニストの自叙伝

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バッハの『ゴルトベルク変奏曲』といえば、数々の名だたるピアニストが卓抜した演奏を披露してきたバロック音楽の傑作中の傑作として知られている。とりわけグレン・グールドの名演が知られているが、本来の楽器チェンバロで演奏したグスタフ・レオンハルトの味わい深い名演も捨てがたい。そして、パリ在住の中国人ピアニスト、シュ・シャオメイもまた、この曲の演奏史に必ず名前を残すことになるピアニストであろう。一体、なぜ中国人女性がこれほどの演奏をすることができるのか?その謎を解くには、このたび翻訳刊行された彼女の自叙伝『永遠のピアノ』を読まなければならない。

永遠のピアノ〜毛沢東の収容所からバッハの演奏家へ ある女性の壮絶な運命〜シュ・シャオメイは中国の上海の裕福な家庭に生まれ、幼いころからピアノの才能を開花させる。しかし、彼女が北京中央音楽院に在学中に文化大革命が起こり、状況は一変する。ブルジョワゆえに出自が「不良」とされた彼女は、侮蔑の言葉を投げかけられるだけならばまだしも、ピアノ演奏という彼女にとって生きるに等しい行為が当局によって禁じられたあげく、「再教育」の名のもとに5年に亘って収容所での生活を余儀なくされる。文革の嵐が吹き荒れるなかを過ごさねばならない部分の記述は凄まじく、彼女の周囲の多くの者が希望を失い、自殺を強いられ、精神的な廃人になるまでが悲壮なタッチで描かれる。

我々もそのような場面を映画では観たことがある。ベルナルド・ベルトルッチの『ラストエンペラー』で、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が政権崩壊後に自己批判を強要される場面だ。あの映画のなかで、溥儀に自己批判を強要していた政府の役人が、文化大革命では自己批判させられる側になっていた。あれは元皇帝の身の上話と思っていたが、『永遠のピアノ』を読めば、そのような状況が日曜茶飯事であったことが改めて理解される。「他の者の欠点を見つけて批判を続けなければ、自分が生きて行くことが出来ない」という世界。この無間地獄のような状況がいつまで続くのか、と読む者は誰もが戦慄させられるであろう。しかし、これはSFでも何でもなく、数十年前に起こった紛れもない事実なのだ。

しかし、この本の著者は希望を捨てることはなかった。何度も脱走を繰り返し、家族に会うことを果敢に試みるばかりか、演奏することを許されていないピアノを住居の近くにまで運び込むことに成功する。そして、革命の終盤になり、あまりにも過酷であった状況が徐々に崩れて行き、自由への萌芽が人々のあいだに少しずつ吹き出していく様は、まるでカミュの『ペスト』の最後の場面を読んでいるかのような気分に読者に誘う。限界状況、狂気的な世界をようやく逃れたシュ・シャオメイが、彼女の唯一の希望であるピアノを弾くために自由な土地を求めて、アメリカへ、そしてフランスへと渡っていく姿を、読者は彼女と同じ気持ちになって読み進めていくことになるだろう。

シュ・シャオメイの弾くバッハがこれだけ人を惹きつけるのは、彼女に本来の才能が備わっているのはもちろんのこと、過酷な体験の積み重ねから醸成された「生への希望」がそこに紛れもなく感じ取れるからだろう。彼女が奏でるピアノの音色は、アメリカやフランスの名門音楽学校を卒業し、世界的音楽コンクールを制覇したエリートが技巧をひけらかすために演奏するような音楽の「対極」にあるものだ。音楽はそれが音楽であるということを忘れさせるかのような空前絶後の境地にまで達しており、聴く者の心の奥底にいつのまにか忍び込み、深さと優しさを刻みつけて行く。およそ、この水準で演奏を続けるピアニストというのは、現在、他にはいないのではないだろうか。

2007年にロベール・ラフォン社から出版されたこの本は、フランス語で執筆されたその年の最も優れた音楽関連書に贈られる「グランプリ・デ・ミューズ」を受賞したという。大抵の場合このような賞に大きな意味はないが、『永遠のピアノ』を読んでみればその受賞は当然と誰もが思うだろう。ショッキングな内容を抜きにしても、常に自省し続ける稀有なる演奏家の自叙伝として、類書と比べても相当な高い水準に到達していることは明らかだ。しばしば著者によって引用される老子の言葉は、この奇跡的な自叙伝をいっそう味わい深いものにしている。

最後にこの本が日本語で読めることに感謝を述べたい。翻訳に携わった面々の努力は並大抵のものではないだろう。著者の感情の機微を見事に再現した翻訳は、信じられないほど読みやすい。一読する価値はある高い水準の翻訳書であることは間違いない(日本語監修:槌賀七代、訳:大湾宗定、後藤直樹、坂口勝弘、釣馨、芸術新聞社刊、2015年)。


不知火検校

永遠のピアノ〜毛沢東の収容所からバッハの演奏家へ ある女性の壮絶な運命〜
シュ・シャオメイ
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