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『希望論 ‐ 2010年代の文化と社会』 宇野常寛&濱野智史

text by / category : 本・文学 / 政治・経済

梅田望夫が『ウェブ進化論』で「ブログが社会を変える」と主張して注目を集めたのが2006年のことだ。その2年前からブログを始めていた私にとって、誰もが自由に情報発信できる「総表現社会」がやってくるという彼の主張は天啓のように思えた。日本が本当に変わる気がした。まさにそこに希望を見出したのだ。匿名の2ちゃんねるではなく、顕名のブログで発言するようになれば、インターネットが討議の場になりうると、『ウェブ進化論』を全面的に肯定する書評も書いた。停滞を続ける日本経済、変わらない政治と変わらない日本の企業。そういう日本を根本的に変えてくれるはずだった。

改めて梅田望夫とは何だったかというと、アメリカのハッカー的なものを理想とし、アメリカ的なものを正統視することだった。しかし日本とアメリカでは社会的な背景が違っていた。アメリカでは国家対市民という対立構造が情報を動かすエンジンになっているのに対して、日本では繋がりの社会性の無内容なコミュニケーションが起点になってネットワークが広がる。梅田望夫はアメリカの、とりわけリベラルな西海岸、シリコンバレーに理想を見出した。グーグルが生まれ、フェイスブックが生まれた場所だ。インターネットという広大なフロンティアに、アメリカ建国以来のフロンティア精神が重ね合わせられた。またその高邁な理念は一発当てれば大儲けできる投資環境に裏付けられていた。さらにシリコンバレーが希望になりえたのはアメリカ的な理念を代表する政治的象徴としても機能したからだ。

しかしニューアカデミズムがヨーロッパ(特にフランス)に依拠したように、梅田望夫がアメリカに依拠したところで、日本の外部に視点を置いて日本を批判する点では同じだ、と宇野常寛は指摘する。結局、日本のネット受容がもたらしたのは「市民の個としての確立」ではなく、2ちゃんねる的(開設者の名前から、ひろゆき的とも言われている)な「自己目的化したコミュニケーションの連鎖」にすぎなかった。そこにはハーバーマス的な公共圏のベースになる「マジでガチな」討議も、応答責任を引き受ける覚悟を持った主体も成立しえない。匿名的な「2ちゃんねらー」たちがネタ的な会話に終始して、炎上ばかり起こしているだけだ。

そういう日本には希望がないのだろうか。宇野と濱野は「実名と匿名」「市民と大衆」「マジとネタ」という2項対立そのものを疑ってかかる。これがふたりの対談の重要なポイントだ。日本ではネタ的なモードにおいて大衆的なパワーが発揮されるとすれば、ネタがそのままマジにつながるような回路を考えた方が良いのではないかと。実際、チュニジアやエジプトで相次いで起こった民主化革命、大学の授業料値上げをきっかけに起こったロンドンの大規模暴動、ニューヨークで起こったウォール街占拠はどうだったのか。そんなに理想的な出来事だったのだろうか。

それらの結末を見ると、左翼的知識人が言いたがるような「グローバル資本主義に対する違和感、異議申し立て」とは手放しでは言えない。ウォール街占拠デモに集まってきた人たちはイデオロギー的なまとまりがあるわけではなく、彼らの主張が矛盾に満ちているだらけの場合も多かった。これらの事件に共通しているのはツイッターやFacebookやスマートフォンを通して、若者たちの参加行動が芋づる式に連鎖し、拡大したことにある。事件の本質はいわば巨大なオフ会が街を埋め尽くしたことにあったのだ。今や「ネットを通じて街に出よう」が当たり前になった。インターネットの本質は理性的な討議の場というよりは、むしろ2ちゃんねる的なものであり、自己目的化したコミュニケーションが連鎖し、まさに「祭り」になっていく過程なのである。

このように、世界各地で勃興したネット初の社会運動の内容だけに注目していても、日本の希望を引き出す作業にはならない。例えば、ジャスミン革命は独裁政権を倒すと言う明確な理念があるから評価される。ロンドン暴動は単なる暴力だから評価されない。ウォール街占拠デモは反資本主義的な運動だから左翼的に評価される…というふうに、ただ内容の次元だけを見て、イデオロギーによるレッテル貼りをするだけでは事件の本質は見えない。実はそれを支える形式、つまりアーキテクチャーのレベルで見ればどれも同じ現象とさえ言える。何が原因で、中東では非暴力な革命になり、ロンドンで暴力の連鎖につながってしまったのか、どういう参加のルールがあればそれを抑制できたのか。このような形式面での比較分こそ析が必要になってくる。

ニューヨークやロンドンや中東には、仕事がなくて暇な若者が一定数いて、彼らがSNSの呼びかけに答え、それが次々と連鎖した。一方、爛熟した日本の消費社会には膨大なコンテンツがあり、暇な若者たちはそこから好きなものを選んで、つっこみを入れて楽しんでいると何となく時間がつぶせてしまう。なぜ日本では格差が拡大した深刻な状況にありながら、若者の運動が起こらないのかとよく問われるが、これが日本の状況と他国のそれとの大きな違いだ。日本で社会運動を起こすなら、若い人たちがはまっているような文化運動なり、娯楽現象なりの形式を十分に研究して、運動に取り入れる必要がある。日本の特殊性を考慮すると、暇つぶしをしている暇があったら社会改革に参画せよと訴えるよりは、暇つぶしの延長で参画できるプログラムを設計すべきなのだと。実際、日本で311以降、日本で起こっている運動、あるいは(若者に限らず)人々と政治との結びつき方は1970年代とは様変わりしているようだ。(続く)



posted date: 2014/Mar/10 / category: 本・文学政治・経済
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