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日本は意思決定システムを構築するのが苦手?――『昭和16年夏の敗戦』猪瀬直樹著

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ちょっと古い本になります。先日東京都知事に選ばれた猪瀬直樹さんの著作です。詳しい事情はよくわからないんですが、昨年夏ごろに猪瀬さん自身がツウィートして注目をふたたび集めたらしく(たしか何年か前にも石破茂現自民党幹事長を通じて話題になったはず)、初出から30年ほど経っているのを考慮に入れれば「古くて新しい」本といえるでしょうか。

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)背表紙には「緒戦、奇襲攻撃で勝利するが、国力の差から劣勢となり敗戦に至る……。日米開戦直前の夏、総力戦研究所の若手エリートたちがシミュレーションを重ねて出した戦争の経過は、実際とほぼ同じだった! 知られざる実話をもとに日本が<無謀な戦争>に突入したプロセスを描き、意思決定のあるべき姿を示す」とあります。総力戦研究所とは、開戦の直前に、おもに当時の各省に所属する平均年齢33歳の若手官僚を中心に結成された総理大臣直属の機関で、「来るべき」対米戦に関する展望を考察する目的のために結成されました。もうすこしここを詳しく説明しておくと、この研究所は昭和15年8月に閣議決定、同年9月に公布されたバリバリの政府機関です。本書において詳細に描かれているように、同研究所は翌16年4月に本格的&泥縄的に始動をしてから、半年も経たないうちに、具体的には8月27日に対米英開戦の見通しについて以下のような結論にたどりつきました。

「12月中旬、奇襲攻撃を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしてでも避けねばならない」

この予測については見事というほかありません。実際の経過をかいつまんでおくと、12月8日に日本は対米英戦を開始し、真珠湾奇襲攻撃に成功。その後しばらくは各地で連戦連勝。ところが17年6月のミッドウェイ海戦の大敗北をきっかけとして、次第に戦局が悪化。18年になると海軍は油不足のために作戦行動に支障をきたすようになり、また米軍は圧倒的な物量を生かして本格的に反撃を開始。19年6月マリアナ沖海戦、10月レイテ沖海戦で海軍が大惨敗。20年2月のヤルタ会談でソ連の対日参戦が決定。8月ソ連参戦、そして敗戦。

彼ら若手エリートは当時日本全体を覆っていた「雰囲気」にとらわれず、具体的な数値やデータを元に、比較的短期間で上記のような結論をはじき出せていたわけです。つまり時局を冷静に見極めることができる頭脳と組織はあるにはあったのですね。しかも、総力戦研究所がソ連による対日参戦まで言及している一方で、日本政府は終戦直前、仲介相手国にソ連を選んでいました…。

そしてここではぼくの意見を補足しておきます。日本はこういった組織を早ければ第一次大戦終結期(1918年。その後の戦争のあり方が国家の「総力戦」になるということが判明した時点)、遅くともワシントン海軍軍縮条約締結(1922年)前までに作っておくべきじゃなかったかと思います(なお、本書では「総力戦研究所」のアイディアを日本で最初に思いついたのは辰巳栄一在英駐在武官補佐官であり、1930年のことであると紹介されています)。ワシントン海軍軍縮条約とはアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアといった主要国の海軍力の制限および保有比率を決めた条約で、少なくとも現在から判断すれば当時の日本にとってかなりおいしい条約だったといえます。戦艦、空母といった主力艦艇の保有比率が米・英・日でそれぞれ5・5・3と割りふられており、当時の国力差を考えれば自国と比べての両国それぞれの戦力を「2倍以内」に抑えることができたとも考えられるからです。

ところが当時の日本海軍にこれを「屈辱」とみなす空気が生まれはじめ、1930年のロンドン軍縮条約(おなじく、当時の国力差を考えるとおいしい条約であったともいえます)締結直後には、軍部、マスコミ、野党政友会がこぞって政府を批判。当時すでにはじまっていた世界恐慌との相乗効果もあいまって、515事件、226事件と政府を狙ったテロやクーデターが相次ぐようになり、事実上このころから政府機能は歯車が狂い始めていました。直接名指しで批判できるような主体が存在しない「対英米参戦の気配」が漂いはじめ、そのうち1939年9月にはヨーロッパで第二次大戦が勃発。日本は時局に右往左往したのちに、ドイツが快進撃中であった1940年8月、上記したように総力戦研究所の設立を閣議決定。1940年9月の日独伊三国同盟締結。時間軸だけでみると(本書でこのあたりの詳しい経緯は書かれていませんが)、このころになってやっと「雰囲気」であった対英米開戦を本気で考えはじめたのかもしれません。いよいよ開戦が時間的に迫ってきたというときに、「さて」とその展望のシミュレーションをはじめたのではないでしょうか。

そして、ちょっと長くなりますが「総力戦研究所」の上記の報告を聞いた東條英機陸相の反応を紹介しておきましょう。彼はこの直後、開戦に反対している天皇陛下に極めて忠実であること、強硬な態度を崩さない陸軍を抑えることができる可能性がある人物として首相の座に就くことになります。また戦後相当な数の日本人がイメージしてきたように、べつに東條英機はなにがなんでも総理&独裁者の地位を手に入れようとしていたわけではありません。どちらかといえば官僚気質の強い人物で、陸軍「省」の省益を極めて忠実に追求する高級官僚の一人であったということを念頭においてご覧ください。

「飯村署長の講評が終わると、二日間にわたり克明にメモをとっていた東條陸相が立ち上がった。(中略…)。前田は、東條の表情が蒼ざめこめかみが心もち震えていたように記憶している。「東條はいったいなにをいう気だろう」。研究生たちは緊張した。以下の東條発言はどこにも記録されていない。研究生それぞれの記憶の奥底にしまい込まれていたものを重ね、総合し、ほぼ正確に復元させたものである。 「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。したがって、君たちの考えていることは、机上の空論とはいわないまでも、あくまでも、その意外裡の要素というものをば考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということでありますッ」 「それにしても」と前田は怪訝に思う。「どうして狼狽しているのだろう。だって、これは架空の話じゃないか。そんなことにいちいち念を押すなんて、どうかしているよ」 帰り際、新聞記者の秋葉<情報局総裁>は、持ち前の勘で<青国閣僚>たちに解説してみせた。 「東條さんの考えている実際の戦況は、われわれの演習と相当近いものだったんじゃないのかい。じゃなければ゜口外するな゜なんていわんよ」 研究生たちには思いあたることがあった。演習の間、しばしば東條陸相は、総力戦研究所の講堂の隅に陣取り<閣議>を傍聴していた。そういうことが一再ならずあった。 東條は総力戦研究所の本来担うべき役割について、深い関心を寄せていた数少ない首脳の一人だったからである」

この記述によると、総力戦研究所の秋葉記者の意見はもっともだと思います。東條英機は同研究所の見解をまっこうから否定しているわけではありません。そもそも「机上演習」することが目的で設立された同研究所に熱心に足を運びつつ、最終的に「机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということでありますッ」というくだりは、意見に同意しながらも、それが周囲に知れわたることを恐れたことを示していると考えられます。

実際に彼は天皇陛下によって直接大命降下がなされる時点まで、自分が首相に指名されることなどまったく想像してもおらず、首相指名をされた当日も本人は参内するにあたって、とある出来事の件で陛下から「お叱り」を受けると思っていたのが、そこで組閣命令=総理就任を命じられて茫然自失。しばらく言葉を失ってしまい、さらには宮中をあとにしたのちに、明治神宮、東郷神社、靖国神社を立て続けに参拝し、その間押し黙ったままの彼の様子をいぶかった秘書官から「どういうことですか」と問われると、「とんでもないことに…。組閣の大命を拝したんだ…」と途切れ途切れにつぶやいたとあります。

これをみるに、おそらく彼は陸軍省の高級官僚に登りつめた経緯が物語るように「対英米戦主戦派」のひとりでありつつ(当時の陸軍が「対英米戦」は「海軍の仕事」というふうにみなしていたと思われてなりません…)、省益を離れて対英米戦が実際にはじまったときの日本の悲劇も予想できる目をもっていた側面は、良くも悪くも注目すべき点であると思います。

また、この記事の締めくくりとして。タイトルとも絡みます。つくづく日本は意思決定システムを構築するのが苦手な国だなと思います…。

こうして開戦した第二次世界大戦にしたところで、地政学的な条件下に左右された&ある程度の作戦連携はしていますが、陸軍はおもに中国と戦い海軍はアメリカと戦う、しかも陸軍は独自に空母や潜水艦をもつといったように…、統一的な意思決定ができていたとはいえません。少なくとも陸海軍はたがいに正確な戦果/被害報告をしていなかったと判断される事例が数おおく見られ、かりに戦時に突入してしまったことを受け入れざるをえないとしても、いざ事がはじまってからでも、自分たちの思惑に縛られつづけ味方をも欺く行為に及んだと指摘されてもしかたがないと思います(また、そもそも軍部の暴走を許してしまった「統帥権の独立」のことも扱うべきでしょうが、背景まで説明するとかなり長くなるのでこちらの wiki のページをご参照ください)。

さらに、現代においても東日本大震災に際しての原発事故への対応、その後の復興庁(各省庁の利益落としどころ組織にしかみえない)創設、その後の復興予算流用問題。

さらにさらに現時点では問題が見えにくいのは仕方ない面もあると思いますが、少子高齢化&人口減少社会が目の前に迫っているのはわかっているはずなのに、「教育」を念頭に文部科学省が幼稚園を統轄し、「保健衛生」を念頭に厚生労働省が保育園を統轄してるってのは、かりに「人口減少社会」に危惧を抱くのが国民の合意にいたったときには、必要な区分けになるんでしょうか。それぞれの省の思惑が絡んだ理念はいいとしても、棲み分けのために「あれはしてもいいけど、これはだめ!」ってな区分はこれから子どもを持とうとする国民とその子孫のためになるんでしょうか?



posted date: 2013/Jan/09 / category: 本・文学政治・経済

専門はフランス思想ですが、いまは休業中。大阪の大学でフランス語教師をしています。

小さいころからサッカーをやってきました。が、大学のとき、試合で一生もんの怪我をしたせいでサッカーは諦めて、いまは地元のソフトボールと野球のチームに入って地味にスポーツを続けています。

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