フランスからグローバリゼーションとオルタナティブを考える新しいフランス学

今月のあるうち読んどきヤ! 『たった独りの引き揚げ隊—10歳の少年、満州1000キロを往く』 石村 博子

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文庫の魅力は、単行本として出版された時に日の目をみなかった良書が今一度店頭に並び新しい読者と出会える場を作ってくれる仕組みであること。今回は、そんな仕組みのおかげで再び書店に並んだとびきりのノンフィクションを紹介します。

たった独りの引き揚げ隊  10歳の少年、満州1000キロを征く (角川文庫)引き揚げ隊から突然ほぼ身一つで放り出された小学校高学年の男の子が、たった独りで満州の曠野を踏破したというとてつもない事実の記録です。この本の主人公、古賀正一君がなぜそんな目にあわねばならなかったのか―それは彼が敵であるロシアの血を引く少年だったから。コサックのリーダーの娘である母と、ビクトル(ビーチャ)というロシアの名を持つ少年だったのです。しかしこの災難の原因が、彼を救います。

歩き方や方位の見極め方、何が食べられどの水が飲めるかといったサバイバル術から、良きコサックとしてのあり方・態度—小さい頃からごく当たり前に教わってきたことを、独りぼっちのビーチャは生き延びるため必死に思い出して実践します(その知恵の豊かさ、確かさときたら!圧倒されます)。一つ一つのノウハウは、自然と向き合い生きてきたコサックが親から子へ引継いできた伝統の生活文化そのもの。「文化」という言葉で呼ぶと生きることからかけ離れた遠いものを示すように聞こえますが、コサックの文化はそれを自分の中に取り込んで実践した非力な少年を救ったのです。橋のない川、暑さ寒さ、空腹や害虫、日本人を恨む大人達…降り掛かる困難を自分の力で解決してゆくビーチャの姿に、彼の陥っている苦境を忘れ、手に汗にぎってしまいます。

道行きは当然のことながら過酷な現実の連続。死者の靴を脱がせてはかなければならない状況に置かれ、恐ろしい光景もたくさん目にします(強い日差しに曝された老若男女の死体についての話は、とりわけ衝撃的です)。しかし、ビーチャには「かわいそうな子供」の印象はみじんもありません。独りで行くことを自分で決断した強さのせいでしょうか。日本人の大人は敗戦と敗走という現実にくじけ、下を向いてばかり。弱いものを気遣う余裕もない。それなら、大人なんか当てにせず、独りでゆくさ。前を向いて、ロシアの歌でも口ずさみながら。

子供ならではの好奇心と偏見にくもらされていない目で捉えた道中のあれこれは、これまで大人が書き記してきた引き上げの記録と違い、より「開かれた」ものとなっています。離れたところから目撃した、混乱し自滅してゆく日本人の姿は、鋭い日本人観とも読むことができます。敗走の現場の細部を率直かつリアルに捉えるだけではなく、満州という土地とそこに暮らす様々な国籍の人々の生きざまにもきちんと触れているのにも目を開かされます。

それなりの頁が割かれたビーチャの単独行以前の話も、この本を豊かなものにしています。特に、母方のコサックの人々の暮らしと歴史が、ビーチャの視点を通じて身近なものとして丁寧に伝えられているのがとても興味深い。国を追われ満州で細々と暮らしをたてつつも、祖国ロシアへの熱い思いと優秀な戦士としての誇りを持ち続け伝統を守ってきたコサックの暮らしと文化が、日本の敗戦によりあっけなく終焉してしまう―この隠れた史実が、この本のもう一つのテーマとなっています。

先祖より受けついだ文化の力で生き延びたけれども、教えてくれた大人や兄貴分はもはやこの世におらず、はからずもその血をひく自分がこの文化の実質的な終わりを見ることとなった。そんな皮肉な運命を負いながら、ひょうひょうと語り回想するビクトル古賀氏の中に、書物だけでは感じ取ることのできない歴史と言う太い川の流れを見ます。ロシアの格闘技サンボの名選手としてロシアで英雄視されている古賀氏ですが、その言葉のはしばしにあの頃のはしっこいビーチャがいます。

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GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。 門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。