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北原みのり 『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』

text by / category : 本・文学 / 政治・経済

2009年秋「婚活サギ女」「練炭女」「平成の毒婦」などの言葉と共に、センセーショナルに報道された殺人事件。この事件は「男を食い物にした女の事件」として「常識」ある人々を震撼させたが、この事件に当初から違和感を感じた人は多かったのではないだろうか。報道されるたび、地味な容姿でぽっちゃりした体型の制服姿の女の写真が必ず添付され、犯人とされる女性の容姿と性に焦点をあてたセンセーショナルな扱い。

しかしながら、その容姿が美しければ、よくある話であり、さらに言えばいやらしい視線を伴った同情が彼女にもっと集まったに違いない。報道は常に、男性目線の物言いで「なぜこんな“ブス”に大金を」と繰り返した。そう、この事件が人目を引いたのは、次々と男性を騙して殺したとされる女性が「美人」ではなく「不美人」だったからだ。

この本は2012年1月10日に始まったこの事件の裁判の傍聴記であるが、法廷での木嶋早苗と彼女を取り巻く男たちの証言と振る舞いを、北原みのり氏が「女性の目線」で冷徹に観察している。

ひと言で言えば、木嶋佳苗という人は、女という属性の何が「売り」になるのか、「より高く売れる商品」にするためにはどうすればよいのか、天才的に理解し、それを実践した。そして、彼女を通して、男性に都合の良いクリシェ=「女性は無償で男性に尽くすもの」が男たちの間に相変わらず流通していることが明らかにされたのだった。北原氏が「佳苗ガールズ」と名づける、木嶋佳苗に「憧れる」ブルセラ世代の女性たち(彼女と同世代もしくは少し下の世代の女性たち)もまた、それらのクリシェはもはや男たちの妄想に過ぎないことを証言するのだ。

「申し訳ないんですけど (…) 被害者の男性に同情ができないんです」 「男性の結婚観って、古いですよね。介護とか、料理とか、尽くすとか、そういう言葉に易々とひっかかってしまう。自分の世話をしてくれる女性を求めているだけって気がするんです。佳苗はそういう男性の勘違いを、利用したんだと思う」(30代主婦) 「佳苗に憧れている (…) 堂々としているから。私は、男が求める女を演じて、ついつい媚びたり、笑ったりしちゃう。そういう自分が嫌なんです。でも佳苗って、男に媚びる演技はするけど、実は全然媚びていない。ドライですよね」(30代女性会社員)

これらの言葉が日本の女性たちが背負わされてきたものを如実に示している。

佳苗が介護資格を持ち合わせていたことは、偶然ではない。彼女は「男性が女性に対して本当に求めているもの」を知り尽くしていた。コルドンブルーに通って磨いた料理の腕前、ピアノの技術、安らぎを与える容姿…彼女はマスコミ(=「男たち」)による描写に反し、むしろ男性に警戒心を与えないという意味で好ましい容姿であったし、清潔感や上品さを漂わせ、さらに、裁判中すら足首を細く保つエクササイズをしたり、常に自分の身体的ケアも怠っていなかった。

彼女の洗練、優美さ、美しさ、丁寧さ、愛情(それが偽りに過ぎないとはいえ)といったものは、「男たち」から得たお金で実現されている。そのことをマスコミは非難するが、でもそれは、女性が男性同様に稼げるようになっていないこの社会で、専業主婦をすることとどう違うのか?

だからこそ、「佳苗ガールズ」は佳苗の「潔さ」に憧れる。

彼女の「潔さ」に対して、婚活サイトでは、自分のことを「白馬の王子様」という50代の男や、「手料理、食べたい」という30代のフリーターがあふれ、若い女性を求め、女性の容姿と年齢を値踏みし、バカにする。無償で自分や自分の高齢の寝たきりの老親の介護をやらせるために、婚活サイトで若いヨメを手当たり次第探していた50代の男性は、公判に証人として出廷し(彼は佳苗の金銭的な要求を飲まなかった)、彼女に「ちゃんと更生するように」と説教する。

自分たちの欲望に対し、彼らが差し出せるものは「お金」しかないのに、当人たちだけがいまだにそのことに気づこうとしない。

北原氏はこの事件を「女の事件だ」という。しかしカテゴリーでくくるだけでは本質を見誤る。「女の事件」であると同時に、「すべてはお金で交換可能」な現代社会の闇に生きる現代人すべてに関わる事件なのだ。佳苗はこの事実を身も蓋もなく暴いてしまった。彼女自身が闇そのものなのだ。家族や夫婦を営むために必要な余剰が徹底的にそぎ落とされてしまったこの世界で、彼女は『異邦人』の主人公ムルソーのように他者と切り離されている。

彼女の瞳には光がなく、洞のようで、一切感情を読み取ることが出来ない。そこにはその目を見る者の欲望だけが映し出される。他者からの自己承認の欲求も薄っぺらなプライドもそこにはない。彼女は市場における自分の価値に対する正当な「対価」と、そこでの人間としての対等な「関係」だけを求めている。相手が本当に欲しいものを差し出し、取り引きしているだけなのに、なぜあなたはそんなに正義を振りかざし、いきり立っているように振舞うの? 常に他人からの視線を気にし、他者の欲望に合わせて振舞うことでしか安心できず、己の欲望に忠実でいられないなんて、なんて不自由な人なの。彼女の視線は、彼女を裁こうと集まった「男たち」の視線を素通りする。この裁判はムルソーにとってそうであったように、彼女にとって「他人事」にすぎないのだから。

そもそも元来婚活サイトは、年齢、年収、住んでいる場所、家族構成、顔写真などプロフィールの情報すべてが条件として、商品化された場所だ。それなのに、その上男たちは一体何を求めようとするのか。愛? 商品化された愛は、もはや愛と呼べるのか?

男たちのこの勘違いゆえ、この事件には、常にボタンを掛け違えたような、的を外した間抜けさ、あるいは滑稽さが付きまとう。裁判において彼女を裁く男たちは誰も彼女のことが理解できず、常に虚空に叫んでいるようなむなしさが漂う。そもそも「被害者」の男たちは本当に不幸だったのか? そのうちの一人は、彼女との交際中「夢を見ているように楽しそう」で、死んでからさえ「弟の亡骸は非常に穏やかで口元が少し笑って」いたという。いわゆる殺人事件の凄惨さや緊張がこの事件には感じられない。

「こんなブスなのにどうしてこんなにモテるの !?(で、なんでアタシはモテないの !?)」と憤る女性記者(美人)を見ていて、北原氏は思う。「もしかしたら、佳苗は「惚れなかったから」、常に男たちの冷静な観察者だったから、そして決して自分の容姿を卑下することがなかったから、男たちに魔法をかけられたのかもしれない。男たちは、ただ彼女に受け入れられている、愛されている、という安心感のなか、彼女が見せる虚構の世界にゆったりと浸かっていればよかったのだろう」

そう、佳苗はもはや「女」という枠では捉えきれない一つの現象なのだ。彼女は、癒しがたい孤独を抱えた現代人が求める欲望を徹底的に分析し、研究を重ねて具現化し、それを提供する「プロ」だったのだから。

いずれにせよこの事件は、ある意味パンドラの箱を開いてしまった。すべての女性は「佳苗ガールズ」予備軍であるということを露呈してしまったのだから。女は、女にとってあまりにも生きづらいこの日本社会でどう生きれば自由になれるのか。この問いに佳苗は、「不気味なほどの冷酷さと冷静さで」「怖いほどにたった1人の世界で」「とんでもなく不気味な方法で」答えを出したが、その答えとは「男たちが女に求めた幻想そのもの」を殺すことだった。

余談だが、この事件は裁判員制度の危うさも露呈させた。実はこの事件には「決定的な証拠」と呼べるものはなかったのだそうだ。しかし、全面的に検察の主張が通り、死刑判決が下された(注)。

男性中心の、もはや機能しなくなりつつある封建的社会の古い掟に佳苗は裁かれたとも言えるが、でも、彼女にとってはそんなことはどうでも良いこと。裁判中常に涼しい顔で表情を変えず、いきり立つ検察がバカにしか見えないような、的確な応答をしていた彼女にとっては、自分らしくあること、自分の欲望だけに忠実であることが最優先事項だった。裁判判決後、すぐに彼女は自分自身で控訴を決め、手記を発表し続けることを宣言する。

注) 北原氏によれば、裁判員たちは「質問できる立場」なのにほどんど質問をしなかったこと、また評議の内容は絶対話してはいけないのに、「状況証拠しかない中で、どのように死刑判決を出したのか?」という、禁じられているはずの問いに「結束して答えを出しました」と裁判員がにこやかに語っていることに、大きな違和感を感じている。そして50代の男性裁判長が被害者の男性たちを「結婚に対して普通の価値観の男性」と繰り返し表現し、公判中佳苗を叱責し、佳苗の異常さを強調する中で、「裁判員に20代、30代の女性がいなかったことは、判決に何か影響を与えただろうか。裁判員と裁判官が‶結束した″時に、違う意見を言い出しにくい雰囲気にはならないだろうか。(…)裁判長の価値観に、素人の裁判員は引きずられないのだろうか」などと次々疑問を呈している。



posted date: 2012/Sep/27 / category: 本・文学政治・経済
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