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ブロンドを生きる ミレイユ・ダルク

text by / category : 映画

ミレイユ・ダルクといえば、キャリアの最盛期だった60年代の頃のポートレートが浮かぶ。きゃしゃですらりとしたスタイル、時折寂しげな表情を覗かせるコケティッシュな微笑。そしてボブスタイルの明るいブロンドの髪。

ミレイユの本当の髪はブルネットだった。女優としての人生をスタートさせてから、髪の色を変えたのだ。そして、ブロンドのまま人生を終えた。

ダルクという姓も自ら付けた。誰もが学校で習うジャンヌ・ダルクにあやかって、それも子供にありがちな間違った綴り(Dの後のアポストロフィを飛ばす)の方を選んだそうだ。

本名のままスターになる人もいれば、新しい名前とともに成功する人もある。ミレイユは後者の方だ。親しまれ、覚えてもらえるように名前を変えてデビューするのはよくあること。が、髪の色まですっかり変え、決して戻す事がないというのは余程のこと。違う名前で新しい人生を生きる事を望んだのではないだろうか。

ミレイユ・ダルクになる前のミレイユはどんな人生を送っていたのだろう。1938年、ミレイユは庭師の父と小さな食料品店を切り盛りする母のもとに生まれた。既に大きな息子が二人もいる、40を過ぎた夫婦にひょっこりできた女の子。どれほどかわいがられたかと思われることだろう。しかし、ミレイユの誕生によって、家庭には亀裂が生じた。父はミレイユの生物学上の親でなかったからだ。思いあまった父は、娘の目の前で自殺しようとしたこともあったらしい。生まれた日から家族関係の緊張の源となったミレイユは、目立たぬようにひっそりと子供時代を送る事を余儀なくされる。

15才の頃音楽の才が認められトゥーロンのコンセルヴァトワールに入学することができたのは救いだった。学校で演劇に出会った彼女は卒業する頃にはその演技力が評され優秀賞をもらうまでになっていた。ミレイユはパリへ出ることにきめる。21才だった。

パリに知り合いは誰もなく、パリの駅に降り立った時には今日泊まる場所のあてさえなかった(パリの住所で唯一知っていたのは、演劇学校のアドレスだけ)。モンマルトルで住み込みの仕事をしながら、演劇のクラスに通い、オーディションを受ける日々を送る。生活のためにはモデルのような細かい仕事もいとわなかった。愛のない関係を重ね、男たちを消費したという。

テレビや映画でヤクザな男の相手役としてBBやマリリン・モンローの焼き直しのような「可愛いブロンド」を演じているうちに、新しいタイプの役が回ってくる。これまでも一緒に仕事をしてきた犯罪映画の名手、ジョルジュ・ロートネル監督の映画『恋するガリア』のヒロインだった。田舎から独りパリへ出てきて、性的な冒険もいとわず自分の気持に素直に生きようとする等身大の娘—ミレイユ自身のこれまでとも重なるところのあるガリアを熱演したミレイユは、一躍人気女優となる。ガリアのお椀型のショートカットや、クールな振る舞いは女の子達がこぞってマネをした。

アラン・ドロンとつきあうようになったのは映画スターとしての地位が固まった1968年、映画での共演した年だ。この頃のドロンは、厄介ごとに首までつかっていた。闇社会との付合いの流れからボディガード兼コンパニオンとしてドロンの家に一室を与えられていた男、ステファン・マルコビッチがゴミ捨て場で死体となって発見されたのだ。「オレの身にもしものことがあったらドロンを疑え」とマルコビッチが書き残していたため、ドロンは警察の事情聴取を受けることとなった、また、マルコビッチが自ら経営していた娼館で顧客のあられもない姿の写真を隠し撮り、恐喝をもくろんでいたこと、その顧客リストには大統領選への出馬を予定していたジョルジョ・ポンピドーとその妻の名前があり、妻の「お楽しみの写真」がマルコビッチの車から出てきたと報じられたことから、世間は大騒ぎとなる。渦中の男であるドロンをマスコミは付け回し声高に糾弾した。そんな最中に、ミレイユはドロンと恋に落ちた。

キャリアの事を考えれば、そんな危ない男の側にいるだけで誤解を招きかねない。大人として、別れを選んでも当然—しかしミレイユは、ドロンと一緒にいることを選んだ。二人でいることが、それほどまでに大切だったのだ。女優としてはロートネルら気心の知れた監督達が手がける気に入った作品にだけ出演し(ゴダールの芸術映画『ウィーククエンド』の現場で嘗めた辛酸は二度とごめん)、自分のために時間をつかった。庭仕事をし、本を書き監督としてカメラの後に立った。ひどい交通事故に巻き込まれたり、開胸手術まで受けることになった心臓病のため母となることをあきらめたりと決して平坦な歩みではなかったけれど、自分が本当に幸せだと思う道を選んだミレイユの人生は、彩りの多いものになった。

「ドロン後」も、ミレイユは鮮やかで忘れ難い瞬間を残している。1972年のスパイ活劇風ドタバタ喜劇“La Grad Blond avec Une Chausseure noire”(片足だけ黒い靴を履いたでっかい金髪男)で、主人公を誘惑する女スパイを演じた時のこと。出番はそれほど多くなく、観客の気持をぱっとつかむ、脚本にはない「演出」が自分の役には必要だとミレイユは感じていた。そこで、彼女は旧知のファッション・デザイナー、ギ・ラロッシュに相談する(スタイリストという商売はまだこの世に存在していなかった)。

撮影当日まで、主人公との出会いのシーンのミレイユの衣装は秘密にされていた。というか、彼女が誰にも教えなかったのだ。着替えた彼女を見て、監督のイブ・ロベールは目をむいた。正面から見れば、タートルネックにマキシ丈のシックな黒のロングドレス。が、後は見事なバックレス。しかも、背中だけでなくかわいいお尻がほんの少し覗いているじゃあないか!撮影現場がどうなったかは、ご想像にお任せする。そして、映画館の観客も、現場と同じ興奮を味わったのだった。子鹿のようにきゃしゃでフェロモン過多ではないミレイユだからこそ着こなし、活かせた一着だった。80年代に他界し、今は名前だけが残っている感の強いファッション・デザイナーを代表する一着として、このミレイユのドレスは美術館に展示されている。

例のドレス姿が見たい方は、こちらをどうぞ。
https://youtu.be/QyAbk2lQnZ8

フランス製犯罪映画に多数出演したミレイユ。CSの洋画チャンネルをまめにチェックすると、躍動する彼女の姿を今も見ることができます。



posted date: 2017/Oct/08 / category: 映画

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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