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A Man of Elegance ユベール・ド・ジバンシー

レスリー・キャロンがインタビューでこんなことを言っていた。1931年にフランスの裕福な家に生まれ、第2次世界大戦前は恵まれた子供時代を過ごしていたキャロンに、そのリッチさをほのめかしたいのかインタビューアーがこう問いかけた。「ご家族のみなさんの着るものはみんな誂えだったそうですね?」「ええ、節目ごとにお針子さんが着てくれて、小さな私もスモックドレスを縫ってもらった。」

そしてキャロンはこう付け加えた。「でもね、あの時代は服がほしいと思ったら自分で縫うか、誰かに仕立ててもらうしかなかったのよ」

1927年生まれ、キャロンより4つ年上のユベール・ド・ジバンシーも、そんな時代に子供時代を過ごした人だった。本名はCount Hubert James Marcel Taffin de Givenchy。名前が示す通り貴族の出、18世紀から続く侯爵家の次男。2才の時インフルエンザで父が他界、プロテスタントのブルジョワ階級だった母の家で育てられる。生まれた育った場所ボーヴェが誇る織物産業に祖父が深く関わっていたこともあり、家の中には美しい布、織物があふれていた。よい子でいた時や学校でいい点を取った時、祖母はキャビネットから秘蔵の織物を取り出して見せてくれ、触らせてくれた。幼いユベールにとって、それは特別なこと、陶然とさせられる瞬間だった。

10才の頃見物に出かけたパリ万博は、ユベールのそんな悦びに形を与えてくれた。ファッションのパビリオンでは当代一流のデザイナー、シャネル、ランバン、ヴィオネらが贅を尽くしたドレスを展示し、それぞれの個性を競い合っていた。こんな素晴らしいものをつくることに携わりたい。ユベールは自分の進む道を決める。

17才の夏、パリがついに開放された。ユベールは空襲によって傷ついた故郷を離れ、一人パリに出た。美術学校で絵の勉強をするというのが表向きの理由だったが、子供の頃からの夢をかなえるため見習いとしてモードの世界に身を投じるのに迷いはなかった。それは、これまでくぐり抜けてきた苦しい日々を忘れるためでもあったと、後にユベールは語っている。美しいものを心から渇望していたと。

エビータ・ペロンやリタ・ヘイワースのごひいきだった当時の花形メゾン、ジャック・ファスへ弟子入りしたのを振り出しに、ロベール・ピゲ、リュシアン・ルロン(ディオールが去った後だった)と武者修行のように有名メゾンを渡り歩く数年間を送ったのち、エルザ・スキャパレリのメゾンで4年を過ごす。マダム・スキャパレリに気に入られ、戦前に作られお蔵入りしていた斬新なプリントのファブリックを思う存分使わせてもらえるなど好きにさせてもらえた。が、腰を落ち着けるつもりはなかった。小さくともとにかく自分のメゾンを持ちたかった。自分の名前で、自分の思い描く美しいものを世に問いたかったのだ。

1952年、若干25才でユベールは独立する。開業資金はスーパーを営む親戚からの援助でまかなったが、コレクション製作に使えるお金は限られていた。世の中はまだ戦後を引き摺っていて、一流メゾンであっても資金繰りに苦労していた。確かな腕の仕立て担当を確保すると、クチュールで使うレベルの高級ファブリックを存分に使うことはできない。ショーモデルをたくさん雇う予算もない。マイナスの札ばかりの状況を逆手に取って、ユベールは初めてのコレクションで「セパレーツ」を発表する。

シチュエーションごとに上から下までひとそろいの服を揃えるのが普通とされていた当時、単品として着ても見映えがし、かつセット違いで組み合わせても美しく調和するデザインのトップとボトムを3点づつ提案したのだ。貴方のセンスで上手く組み合わせれば、少なくとも9通りのスタイルが楽しめ、様々なシーンに対応できます―画期的なアイデアだが、実のところは、限られた予算で手に入れたファブリックを有効活用しようとして生まれたものだった。

クチュールの世界では仮縫いのプロトタイプに使われるなど裏方扱いのファブリックであるコットン、しかもワイシャツ用のコットンを使った作品も発表した。ほっそり伸びた袖の袖元を黒のアイレット刺繍がアクセントになったボリューム感のあるフリルが飾る、ラテン楽団のマラカス奏者の衣装を彷彿とさせるブラウスは、スキャパレリにいたころ知り合い裏方としてメゾンの立ち上げにつきあってくれた一流モデル、ベッティナ・グラツィアーニが着てお披露目した。

反響は上々だった。シンプルでスポーティ、でもクチュールならではの上質な端正さと優雅さが息づいているユベールのデザインは、家から外へ出て仕事をし、親に頼らず自分の着たいものを自分で手に入れようとしていた若い女性達の気分に応えるものだった。

アメリカの有名写真誌『ライフ』が、フランスの新しい才能としてユベールのコレクションを取り上げてくれたことも大きかった。例のコットンのブラウスは「ペッティナ・ブラウス」と呼ばれ、国境を超えて大ヒットする。当時のクチュール界のデザイナーは、相応の手数料さえ頂ければ国内外の大手デパートにデザインの型紙を提供していた。10ドル程度の価格で売り出された、由緒正しき「ペッティナ・ブラウス」のコピーは気軽に楽しめるパリの新しいエレガンスとしてアメリカでも大いに売れ、ジバンシーの名前を広めた。

こうした評判を聞きつけて新進スター、オードリー・ヘップバーンは次の主演作『麗しのサブリナ』の衣装を依頼しにパリのジバンシーのメゾンを訪れる。デザイナーと彼の永遠のミューズの長きに渡る理想のパートナーシップの始まりだった。二人が一緒に造り上げたクリエイションは、今もオードリーの主演した映画の様々な場面で見ることができる。

190センチを超える長身に貴族の出ならではの気品ある顔立ちの美丈夫、着こなしのセンスも抜群なユベールは、スター・デザイナーとして早々に国際的なセレブリティの仲間入りを果たした。クチュール以外の分野への進出も早かった。高級プレタポルテのライン、香水に化粧品、スカーフ、アクセサリー、メンズライン(そもそも自分の服は自分でデザインする人だった)、そしてライセンス・ビジネス。他のデザイナーとは違い、企業からの資金援助は受けず経営者としてリスクも自分で負う立場を貫いた。ビジネスに関わることをいとわず、海外にも展開する自分のブティックに顔を出し、業務拡大を迷わないこうした姿勢は、確固たる信念に支えられてのことだった。他人に干渉されず、資金面で縛られることなくオートクチュールを維持すること。そのために最大限の努力をすることにためらいはなかった。

オートクチュールは自己を解き放つだけでなく、デザイナーとして大切に思っていることにこだわることができる場だった。まず、ファブリックと、とことん向き合うことができる。「ファブリックに逆らった仕事をしてはいけない。ファブリックそのものに命が宿っているのだから。」こんな言葉を残しているほど、ファブリックは彼のデザインにとって大事な存在だった。ファブリックの前に立つことでデザインのインスピレーションが湧いてくる―そんなユベールにとって、信頼のおけるメーカーと協力して素晴らしいファブリックを誕生させ、そこから美しい服を創ることができるオートクチュールはデザインする喜びを感じさせてくれた。

また、ユベールが感じるエレガンスを形にする場でもあった。それはこの世のあらゆる女性に向けられたものではなく、生まれもった気品、内面の美しさを感じさせる特定の女性達に捧げられていた。オードリーやジャクリーヌ・ケネディはその代表格だが、長い付き合いの顧客であり親しい友人であったアメリカ人、レイチェル・ランバート・メロン(親しい人はバニーと呼んでいた)はジバンシーのエレガンスを体現している女性かもしれない。ジレット社とワーナー・ランバート社のオーナーの令嬢でアメリカでも指折りの富豪であるメロン家に嫁いだ女性。芸術に対する造詣が深く、またホワイトハウスの庭を手がけた造園家としても知られている。アメリカ的な派手な美人ではない、楚々とした上品な女性だ。華やかな場にも足を運んだが、自分のための静かな時間と空間を大事にした彼女のために、ユベールはガーデニング用の作業着からインティメイトな衣類までもデザインした。本当にシックな女性の日常を彩り支える服を作ることで、ジバンシーのデザインはより洗練され、ごまかしのないものになった。敬愛する顧客の顔を思いながら心を込めて服をつくることが、オートクチュールではできたのだ。

そして、オートクチュールは、ユベールの「師」ともいうべき偉大なファッション・デザイナー、クリストバル・バレンシアガから受け継いだクリエイションへの強い思いを存分に発揮できる場であった。パリに出てきて最初に訪れたのはバレンシアガのメゾンだったが、デザイナー本人に取り次がれることはもちろんなく門前払いされる。憧れの人についに会えたのは一本立ちした後、26才の時だ。

片や戦前から独創的なシルエットと圧倒的な手技で彫像にも似た揺るぎない美しさのドレスを発表し続けてきたファッション界の孤高の巨人。片や戦後の時代をのびのびと生きる若い女性達を軽快に彩る新進気鋭のデザイナー。バレンシアガが好んで使ったモデルは超然とした態度の大人の女性だったのに対し、ユベールのミューズは快活な笑顔のオードリー。対照的とも言える二人だが、バレンシアガが引退するまで十数年に渡り深く交流することになる。

ジョルジュ・サンク通りのバレンシアガのメゾンの真向かいに、ユベールは自分のメゾンを移す。権威の向うを張って、ということではなく単に気軽に行き来したかったからだ。二人は互いのコレクションを見るだけでなく、そのクリエイションを見守りアイデアを交換した。ニュアンスは異なるけれども、この頃の二人が発表したドレスには互いに通い合うものがあった―シンプルなすきっとしたラインと着る人をつつむエレガントさ。バレンシアガのところでスーツを誂えたら、ジバンシーのところにそれにぴったりの帽子があった、ということがよくあったらしい。

1956年、二人は業界のスケジュールを無視して通常より1ヶ月遅くコレクションを発表する。海外のメディアにもう一度渡航させる「暴挙」だったが、二人はこれを10年続けた。通常のパリコレ特集から一号遅れで紹介される二人のコレクションは、しばしば左右見開きのページで紹介された。両並びで掲載された二人のドレスには、響き合う美しさがあった。

もともと人を指導することを好む人だったバレンシアガが才能あふれる誠実な若者と出会ったから、バレンシアガの高潔な人柄にユベールが「父」を見いだしていたから、等二人の深い交流の理由づけを説明しようとする向きもある。が、実はもっと簡単なことなのかもしれない。より美しいものを、より完璧なものを求める情熱と、ドレスメイカーというメチエの苦しみと喜びを分かち合える存在を互いの中に見いだしたのではないだろうか。袖の付け方といった専門的な議論に、尽きせぬ楽しさを味わっていたのではないだろうか。

1967年、引退しメゾンを閉めると決めた時、バレンシアガは自分の長年の顧客達をユベールに紹介した(バニー・メロンもその一人だった)。ユベールは、女性のためにしか服を作らなかったバレンシアが彼のために特別に仕立ててくれた白いジャケット―鋏や洋裁の道具を入れる大きなポケットが付いたドレスメーカーの仕事着—を誇りに思い、大事に着た。

1988年、ユベールは自らの会社を高級ブランドを傘下に置くLVMHに売却する。数年間自身の名を冠したブランドのためにデザインを続けた後、1995年に引退を表明。ファッションの世界から完全に身を引き、その後のジバンシーブランドのすさまじい豹変ぶりにも口を閉ざした。

美しいものには、それからもずっと関わり続けた。ルーブル美術館や、クリスティーズといったオークションハウスにアンティークへの深い造詣を活かした助言を行い、バレンシアガの作品を展示する美術館を彼の故郷スペインにオープンさせるために尽力した。自分のメゾンを開いてからこつこつと集めてきた絵画、アンティーク家具が細心の注意を払い心地よく配置された、文字通り夢のような住まいで、長年の公私にわたるパートナー、フィリップ・ヴネと日々を送った。私の信じる美に迷うことなく導かれた人生だった。 

ジバンシーのレトロスペクティブ展の映像はこちら。

フランスで開催されたバレンシアガの展覧会の映像。

室内装飾もクリエイションのひとつと考えていたジバンシーは、自邸のインテリアにも情熱とこだわりを見せた。晩年、コレクションしてきたディエゴ・ジャコメッティ(アルベルト・ジャコメッティの弟)の彫刻、調度作品をクリスティーズでオークションにかけるにあたり製作された映像の中で彼の邸宅が登場するので、関心のある方はどうぞご覧ください。

Top Photo By Sailko – 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, 

 



posted date: 2018/Apr/12 / category: ファッション・モード

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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