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大学の講義のネット配信

text by / category : IT・情報技術

「学問を修めるために若者が大学に通うということが、比較的早い時期になくなるだろう」と予想するビル・ゲイツの発言が記事になっていた。

「ここ5年以内に、最高の教育リソースは無料でウェブ上に現れ、個々の大学などよりもはるかに良い教育を提供できるようになる」。さらにゲイツが問題にしているのは大学という場所だ。大学は「そろそろ施設などから開放されるべきで、皆で同じ場所に集まる必要はない」。アメリカも日本と同様に大学の授業料が高く、教育格差が問題になっているが、「ひとつ所に集まって学ぶ現状のスタイルは高価なものとなりがちで、十分な教育を受ける機会を失わせる」。ウェブ教育を充実させていけば、「現在の特定施設に立脚した教育システムの重要性は5分の1程度に減じるだろう」とゲイツは言う。

そういうシステム移行するためには「どのような手段で学んだにせよ、その学識は正統に評価される」必要がある。「MITから与えられた学位であれ、ウェブから学んだものであれ」同じように。ゲイツもそういう信念を持っているようだ。これは個人がどの大学を出たかという肩書きではなく、個人の能力をきちんと評価することにもつながるだろう。大学のウェブ化の手始めが大学の講義のネット配信である。ネット上で講義を一般に無償公開するという考え方はMITが「オープンコースウェア(OCW)」という画期的な構想で5年前に先鞭をつけた。MITはその思想に共鳴したヒューレット財団やメロン財団などから大きな資金を調達してシステムを構築し、すべての講義を公開するという作業が進行している。

一方アップルは2007年に「iTune U」というサービスを開始した。スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校、MITなど全米の大学の講義を無料公開するサービスだ。アップルは「iTunes」と「iPod」の組み合わせによって音楽のプラットフォームを押さえたが、同じ仕組みを使って大学の講義をいつでもどこでも受けることができるようにした。すでに世界で800以上の大学が参加、うち半数がコンテンツを一般公開しており、その大学の学生でなくても聴講できるというオープンな条件が何よりも重要なのである。すでに35万以上の音声/動画ファイルが利用でき、ダウンロード数は3億を超えたという(8月25日現在)。もちろん講義ライブラリはこれからも充実していくだろう。

「iTunes U」には東大を初めとする日本の大学も加わっている。東大は「東大 Podcasts」で公開してきた講義を配信し、話題のマイケル・サンデル教授の東大特別講義「ハーバード白熱教室 in Japan」も配信予定だという。明大は森川嘉一郎准教授による秋葉原とオタクに関する講義、慶応SFCは村井純教授などによる講義「インターネット2010」。各大学が特色ある講義を配信している。多様なコンテンツが集積され、使い勝手が良くなれば、個々の大学の枠組みを超えた別の学びの形や場が形成されることになるだろう。

インターネットの普及によって知識を得たいと思えば誰でも世界中の情報にアクセスできる状況が整ったわけだが、ポイントは「知識を得たいと思えば」という条件である。つまりウェブを通しての学習は、標準的な能力を身につけるために与えられた課題をこなすのではなく、自発的に学び、新しいものを生み出すような意欲や好奇心が重要になる。『フラット化する世界』の著者が言っているように、ネットが浸透した世界ではIQ(知能指数)よりもPQ(熱意指数)やCQ(好奇心指数)が先行する。標準的な能力を持つ人間を組織で働かせ、近代社会を効率的に動かすための教育はすでに終わったし、必要ないのだ。

大学は講義をネット配信することで自分の大学が魅力的な授業をやっていると対外的に広くアピールする宣伝効果がある。一方で、面白い講義を聴きたいという純粋な知的好奇心のために大学が存在しているとすれば、それを阻んでいた大学の偏差値や親の収入という教育格差は取り払われることになる。誰でも最先端の高等教育に簡単にアクセスできる社会を作るという方向は、学生を偏差値によって序列化したり、一定数の学生を囲い込んで授業料を取るという大学の運営モデルを壊してしまうかもしれない。またとりわけ文系学部にとっての本質的なのは図書館で、それが大学という存在に必然性を与えてきた。それがグーグルによって図書館がデジタル化され、図書館というインフラが大学の外に開かれてしまったとき、大学の文系学部にどのような存在意義が残るのかも問われるだろう。ネット上に世界中の大学が発信する多様なコンテンツが集積され、使い勝手が良くなれば、個々の大学の枠組みを超えた別の学びの形や場が準備されることになり、何からのブレークスルーが起こるかもしれない。

宮台真司がネット番組で「今の日本の大学は大学の先生たちのためにある。ネットの時代に大学に多くの教師をプールしておく理由はない」と身も蓋もないことを言っていたが、これはゲイツの発言とも共振するのかもしれない。一定のレベルの教育をするベーシックな講義はコンテンツ化しておけばいつでもどこでも聴講できる(毎年同じ板書を繰り返す退屈な講義は一掃される)。一方で面白い講義をする、学生に対して強い感染力のある教師はさらにひっぱりだこになり、価値の高いコンテンツを生むだろう。

学習内容のコンテンツ化は場所と時間にしばられないことを意味する。学生は自分で学習プログラムやカリキュラムを組み、教師はそのアドバイザーやコーディネーターのような役割を引き受けるようになるのだろう。ネット配信の拡大と平行して youtube や ustream など、映像や音声の配信を無償で行うプラットフォームが構築され、誰でもそれを簡単に使えるようになった。MIT のように大きなプロジェクトでなくても、リアルタイムで講義をネット配信するインフラは十分に整っている。また大学という虎の威を借りなくても、個人の研究内容そのものの魅力によって、自由な形でセミナーなどを主催し、仲間を集めることができる。その一方で大学は予備校、専門学校化する傾向にあって、自由な文系的な教育に向かなくなっている。授業料が高くなればなるほど、成績の公平性や透明性が求められ、教育投資に対するリターンが求められるからだ。だから自由な学問の場所は大学の外に展開する方がいいのかもしれない。

日本の大学は明治時代に西洋の技術や文化を翻訳し、日本に移入することから出発した。それらを特権的な人間が独占していて、少しずつ、もったいぶって下に流すことで権威を保っていた。このような西洋の知識を伝達・中継し、下に流す役割はもはや必要とされていない。また現在の新聞や雑誌の凋落が著しいが、大学も明らかに非フラットなトップダウン型社会の遺物で、それらと無縁ではないないはずだ。既得権益者たちは伝統ある出版文化やジャーナリズムが崩壊すると叫んでいたわけだが、今やそれらは逆に全く信用されていない。5年前のネットジャーナリズムはまだおぼつかないものだったが、同じように5年経てばビル・ゲイツが言うような新しい大学の動きが確実に起こるのかもしれない。



posted date: 2010/Oct/06 / category: IT・情報技術
cyberbloom

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