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『お菓子でたどるフランス史』

text by / category : 本・文学 / 食・レシピ

『お菓子でたどるフランス史』本書は『パスタでたどるイタリア史』に続く、食べ物を通して歴史を学ぶシリーズ第2弾である。東大の人気講義がもとになっているようだ。イタリア史、フランス史そのもには食指が動かなくても、パスタやお菓子が絡めば、目の色が変わる人も多いだろう。

著者によると、お菓子がその地の精華になりえたのは、生きるために不可欠な食べ物ではないからだ。社会関係や文化の潤滑油、調整の道具として、余分なものとして付け加わった。つまり、お菓子はより良く生きるために必要なものなのだ。だからお菓子は地位や権力だけでなく、遊びや洒落っ気と結びつく。余分なものであるからこそ、生活に甘美な潤いを与え、幸せな感興をわきおこす不思議な力がある。ケーキが最高のおみやげの地位にあることを思い出せば十分だろう。だからお菓子は政治的・経済的な支配ではなく、文化的な支配の力関係のなかに取り込まれることになった。

お菓子でたどるフランス史 (岩波ジュニア新書)フランスは長い歴史を通じ、全精力を傾けてお菓子という宝刀を磨いてきた。もちろんフランス料理全体が世界的なアピールの対象になったのだが、お菓子はそれだけで他の料理と切り離しても使える小道具的な便利さがあった。フランス料理はヨーロッパや世界の宮廷や上流階級の食卓へと広まるが、一般庶民はなかなか手が届かなかった。しかしお菓子ならばフランスの美食神話の尖兵として一般人の手に取らせ、口に運ばせることができた。さらに大事な戦略は、あこがれの対象としてそれを語らせ、優雅に響くフランス風の名前で呼ばせることだった。そうすることで、フランス菓子は、洗練、気ままさ、おしゃれ、都会的、といったイメージを自動的に紡いでいったのだ。

経済的にパッとしないフランスが未だに世界の憧れの文化国で、一定のブランド力を保持しているのは、ラグジュアリー分野をきちんと押さえているからだろう。それは長い伝統の蓄積があってこその分野である。先進国の購買力が落ちたとしても、次々と新興国が現れ、経済成長に乗った成金たちは必然的にフランスに目を向ける。今は中国が最大の顧客だ。かつての日本人のように、中国人はヴィトンやエルメスを買いあさり、ボルドーのシャトーを買収している。またフランス語学習者も増えているようだ。

このようにフランスの精髄は国土を離れ、世界に拡散しているのだが、フランス菓子に関しては日本が最もそれが根付いた場所になっている。未だに本格的にお菓子作りの修行をするにはパリに行くことになっているが、今や世界で最も美味しいフランス菓子が店に並ぶのは日本(特に東京と神戸)ではないだろうか。日本人のパティシエたちの世界的な活躍も目覚ましい。洗練された懐石料理と和菓子の伝統があり、目と舌が肥えた消費者が跋扈する日本に広がったことは深く納得できる。

フランスのラグジュアリー分野の昔と今を結んだものとして、ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』が思い出される。絶対王政が終焉を迎える直前のヴェルサイユ宮殿の贅沢と豪奢の極み。つまり文化が過剰に咲き乱れた姿として、音楽、ファッション、お菓子が顕現する。フランス革命期を背景にしながらも、マリー・アントワネットと彼女の取り巻きが、80年代のロックとマカロンに彩られたセレブの女子会のように描かれた。DVDのジャケットのように、指をなめるマリーが前景化したことはかつてなかった。

マリー・アントワネット (通常版) [DVD]『お菓子でたどるフランス史』の著者はマリー・アントワネットどころか、ジャンヌ・ダルクの時代にまでさかのぼり、歴史をお菓子と関連付けながら紐解くのだが、最後に現代の新しい食感の象徴としてムースに言及している。ムースの特徴は固めるときに、加熱せずに、冷却する。これは生菓子をまとめて冷凍保存できるショック・フリーザーの開発によって可能になったという。生菓子は温度管理が重要だ。パティスリーで生菓子を買うと、家に帰るまでの時間を尋ねられ、それに見合った保冷剤をつけてくれる。『失恋ショコラティエ』で突然の停電でお店のチョコレートが溶けてしまう危機にさらされるというシーンがあったが、それらが人工的な環境で作られ、保存されていることを思い起こさずにはいられなかった。まるで核燃料のように。

ムース mousse はフランス語で泡のことだが、最近はお菓子の肌理(きめ)=テクスチャーが味や食感を左右するという考えが主流になってきているという。技術の進歩によって、ふわふわ感やねっとり感など、繊細なテクスチャーを作り出せるようになった。マルセル・プルーストのマドレーヌ体験ならぬ、ムース体験は軽く、舌の上で瞬時に溶け、刹那的な至福をもたらす。マドレーヌのように記憶を喚起するよりは、現実とか記憶とかを切断して瞬時の感覚のみが研ぎすまされるようだ。冷たく濃厚なアイスクリームの強度ともまた別のものだ。淡い食感を残して泡のように溶け、舌の上にひろがったひとつの効果に還元されるような、物質性が限りなく希薄な究極のお菓子といえるかもしれない。

この体験は何に比すればよいだろうか。美的な効果(光と色彩)に還元するといえば、印象派の絵画も同じだが、絵画は所詮、身体と対象のあいだに距離がある。身体的な接触によって、あるいは身体の内部で直接感受され、快楽によって意識をかく乱されるといえば、恋愛体験以外にはありえない。両者の共通点は「甘さ、甘美さ」であり、愛はしばしば「うたかた」に例えられる。

「フランス人は恋愛について語るときに食べ物に関する言葉をよく使う。口に入るものは、口から出るものと同じくらいに注意が払われる。フランスでは言葉は正しく、繊細かつ官能的に用いられなければならない」とフランス在住のアメリカ人ジャーナリスト(『フランス人この奇妙な人たち』の著者 )は書いている。つまりフランス人にとって、愛を語ることは、お菓子を語ることと同義であり、恋愛感情とお菓子を味わうことは同種の官能性を持っているということだ。

もちろん恋愛は人間にとって普遍的な感情であるが、それを過剰な作法にまで高め、専売特許にしている国はフランスの他に見当たらない。ちょうど野崎歓氏が最近出た『フランス文学と愛』で「甘い文化装置」について次のように述べている。

愛の言葉をささやきながら独特の甘いムードを醸し出し、それに自ら酔うフランス人はヨーロッパにおいても特異な存在である。フランス語は愛の観念と特別な絆で結ばれ、愛についての特別な表現力を持つかのように考えられてきた。フランス人自身も半ば当然のようにそう考え、ヨーロッパの他の国民もそう思ってきた。それが広く共有されるに至ったのは「アムール amour」のあらゆる相を描き出したフランス文学の力なのだった。

フランス文学の戦略と同じように、フランス菓子もフランス語の甘い響きと結びつき、他国にひとつの洗練された文化と認定させつつ、外見も含めた甘さのあらゆる相を描き出している。ちょうど最近、お菓子と恋愛を結びつけたドラマが話題になった。水城せとな原作の『失恋ショコラティエ』である。主人公の爽太はショコラ好きのサエコを満足させたい一心で、パリで6年の修行を積んでショコラティエになり、彼女好みのショコラを作り続ける。つかみどころのない「妖精さん」である彼女を知りたいという飽くなき欲望と、それが描き出す幻想が、新しいショコラを生み出すインスピレーションを駆動する。爽太にとってショコラはあくまでサエコに食べてもらうためのもの。ピンポイントで彼女に向けられたものだった。しかし彼女が自分の手に入ったと思った瞬間、彼女のイメージに余剰=深みと奥行きがなくなり、新しいショコラが作れなくなる。人間の欲望の仕組みが宝石のように磨き上げられたショコラたちに託されていたのだった。

Top Photo by Yoonji kim on Unsplash



posted date: 2014/Apr/09 / category: 本・文学食・レシピ
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