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ネットで話題の『ノマドと社畜』を読む

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日本でのノマド議論の火付け役のひとつに佐々木俊尚さんの『仕事するのにオフィスはいらない―ノマドワーキングのすすめ』が挙げられる。佐々木さんが「ノマド批判」に応えたインタビューで、最初に「カフェなどで仕事やミーティングや商談をする機会が増え、オフィスは必ずしも要らないのでは」と書いたのが、いつのまにか「ノマド=フリーランス」と誤解されるようになったと言っている。佐々木さんの主張の核心は、新しいテクノロジーとインフラのサポートによって、ある分野の仕事はオフィスを持つ必要性が薄れ、「フリーランスの仕事がやりやすくなった」ということだった。 一方で佐々木さんのノマド論には、モバイルフォンやラップトップPCを通して恒常的にネットにつながっているノマド生活の到来を楽観的に描き出した「ついにノマドがやってきた Nomad at last 」(英『エコノミスト』誌2007年掲載)という記事が引用されていた。

その記事はこんな調子だ。 ノマドと社畜 ~ポスト3.11の働き方を真剣に考える カリフォルニア、オークランドの「ノマドカフェ」で、バークレーの近くの大学で法律を学ぶ学生ティア・カトリーナ・カンタスはダブルのアメリカンコーヒーを彼女のモバイルフォンとiPadのそばに置き、ラップトップのMacBookを開き、勉強するためにカフェの無線のインターネットにつなぐ。彼女がここの常連だが、彼女は現金を持っていない。彼女のクレジットカードの明細にはノマド、ノマド、ノマド、ノマドと書かれている。常にインターネットにつながり、彼女は一日中、文章、写真、ビデオ、声によって友達や家族とつながっている。同時に彼女はそれらを仕事仲間にしている。彼女は町を歩き回るが、しばしばノマド向けのサービスを提供するオアシスに降り立つ。

さらに佐々木さんは、「正規雇用が当たり前だった時代は過去のものとなり、すべての人間が契約社員やフリーランスとなる社会へ移行しつつある」と述べている。ノマド化の背景には決定的な産業構造や労働環境の変化があるのだ。かつては終身雇用制と年功序列制に守られ、会社に依存していれば何とかなった。しかし今は自分自身で人生を切り開き、この変化に否応なしについていかなければならない。そのための知恵と戦術が「新しいノマド」の生き方なのだ。これは福音のように聞こえるが、すべての人間がそのままノマドなフリーランスになれるわけではない。その多くの人たちは非正規雇用のまま、厳しく不安定な条件で働き続ける「仕事を選べないノマドワーカー」になるか、そうでなければ仕事を失うことになる。

ノマド概念の紹介者であるフランスの思想家、ジャック・アタリはノマドを「超ノマド、ヴァーチャル・ノマド、下層ノマド」の3つに分類する。「超ノマド」と呼ばれるのは、金融業や企業の戦略家、保険会社や娯楽産業の経営者、ソフトウェアの開発者、法律家、作家、デザイナー、アーティスト、オブジェノマドの開発者たちである。彼らは自営業者、広義のフリーランスであるが、世界を見渡してもせいぜい数千万人しかいないエリートたちである。一方でヴァーチャル・ノマドと呼ばれる、定住民でありながら、超ノマドに憧れ、ヴァーチャルに模倣する人々がいる。世界の40億の人々が、下層ノマドに転落する不安に駆られつつ、ラップトップPCやスマホを持って、その気になっている。それにはインターネットが与える平等幻想や万能感も影響しているのだろう。

確かにインターネットへのアクセスは万人に開かれているが、誰もが「超ノマド」の仕事やコネクションにアクセスできるわけではない。 そういう安易なノマドへのあこがれに警鐘を鳴らしたのが谷本真由美さん(ネット上ではツィッターのアカウント @May_Roma で知られる)の『ノマドと社畜 ~ポスト3.11の働き方を真剣に考える』である。メイロマさんはまず、ノマドはデジタルな香りがする一種の自己啓発的な貧困ビジネスに成り下がってしまったと指摘する。ノマドという言葉に踊らされた若者が、ノマドワーキングをテーマにしたセミナーに勧誘され、ノマドなノウハウを伝授するマニュアルや、ノマドの体裁を整える機器を売りつけられる。それらの値段も半端ではない。

メイロマさんが実際に対面したケースでは、ノマドを夢見る若者には自分で勉強や努力をぜず、人に要求ばかりする「クレクレ君」が多く、ノマドアイテムをそろえれば仕事が天から降ってくると思っているようだ。耳の痛いことには、具体的なスキルを持たない、そして現実を知らない、頭でっかちの文系学生にノマド君が多いようだ。 メイロマさんが強調するように、ノマドワーキングの到来は、産業構造の変化がもたらす恐ろしい格差社会の反映だということを忘れてはいけない。

これまで日本で支配的だった年功序列や終身雇用制度は行き詰りつつあり、スキルや成果ベースの働き方に移っている。クローバル化した世界ではスキルのある人間はまさに国境も時間も関係なく、金を稼ぐことが可能になる。ノマドは最初からその道のプロとして働くことを要求されるので、経験の少ない若者や付加価値の高いスキルを持たない人々は労働市場から疎外されることになる。 2011年のイギリスで起こった暴動の引き金には、このような労働市場の地殻変動から取り残されていく苛立ちが原因と言われているようだ。

イギリスでもインドやバングラディシュのエンジニアが高い年収を得る一方で、スキルがないイギリスの若者は仕事がない。EUの通貨統合後のイギリスで労働市場が自由化されると、南欧や東欧から外国人労働者が働きに来るようになった。彼らは何か国語も話す上に自分の国より稼げるので熱心に働く。さらに金融の専門家や技術者、研究者の領域にも外国人労働者が入り込んでいる。英語しか使えず、技術も知識もないイギリスの若者には勝ち目がないのだ。

このようにノマド的な働き方が広がると、技能のある一部のプロに仕事が集中し、彼らはさらに稼げるようになる。一方、能力のない正社員は切り捨てられるか、労働の付加価値が低いためにどんどん給料が下がる。日本のケースで考えてみると、日本のサラリーマンは新卒で会社に入り、様々な部署を経験するゼネラリストが多い。 しかし日本でも景気が悪くなれば(それ以前に先進国は低成長のフェーズにある)、企業はノマド的な人材を使うようになる。グローバル化にともないビジネスのスピードが加速し、価値の急速な変化に柔軟な適応が求められる今、企業にとってコストが高く知識が陳腐化しやすい正社員を抱え込むことは著しいリスクになる。

企業はプロジェクト単位でチームを組織し、その道のプロを雇うようになる。現在の中心的な産業である「ITやエンジニアリングやクリエイティブ産業」においてそれは顕著だ。これは日本のサラリーマンにとっては恐ろしい事態になるだろう。なぜなら彼らには専門的な売りがないからだ。ノマド的な働き方が広まっていくと、ゼネラリスト的な働き方はその役割や需要はなくなっていく。つまり従来の日本的なサラリーマンは要らなくなるのだ。 トウキョウソナタ [DVD]

黒沢清監督の『トウキョウソナタ』(香川照之&小泉今日子主演)に象徴的なシーンがあった。主人公の男は前の会社で総務課長まで務めた自分がなぜ他の会社に雇ってもらえないのか、理解できない。リストラされた会社でも、別の会社の面接でも「あなたは会社のために何ができますか」と問われても何も答えられない。質問の意味すらわからない。新しいアメリカ流の人事担当者に「すぐここであなたの能力を示してください」とまで言われ、男は苦し紛れに「人間関係を円滑にできます」と言うが、日本のサラリーマンの能力は、ある会社のある部署で培われるローカルな能力にすぎないのだ。

「ノマドな社畜になれ!」とメイロマさんは言う。サラリーマンであっても、自分を「自分商店」や「外人部隊の傭兵」と考え、つねにスキルを磨いていれば、突然訪れる現実に対処できる。ノマドに必要なのは専門知識やスキルだけではない。ひとりで回すラーメン屋台のようなものだから、営業、事務処理、対人能力(まさにコミュニケーション能力)も必要とされる。会社に雇われていても、常に意識的に創意工夫を積み重ねることで、自分らしい付加価値を見つけていくことができる。副業をしてみるのもお奨めだ。ネットのおかげでちょっとした仕事を立ち上げる敷居が格段に下がったし、自分の創意工夫を実際に試すことができる。

ノマドを夢見る若者に文系学生が多いと先ほど書いたが、メイロマさんはさらにキツイことをおっしゃっている。 「景気の悪化と学費の値上げにより、イギリスでは文系学部の人気がどんどん下がっており、哲学や史学、語学系の学部は廃止または統合されて、国立大学でも教員は解雇されています。その一方で、食べていける知識が身につく理系や経営系は大人気で、志願者が増えている」(P.108) 「ノマドになりたいと言っている学生さんの専攻の多くが、リベラルアーツ(一般教養課程)や、社会学や、キャリアデザイン(意味不明)とか、「国際なんとか」とか、「文化なんとか」という名称なのですが、それではノマドになる技能は身につきません。本当に自立して働きたいのなら、専攻を変えるか何かして、理系や医療系などの「食える」技術を身につけないといけません」(P.160)

人文系の大学生だけでなく大学の教師にも厳しい現実が突きつけられているわけだが、つい先月25日の英エコノミストの記事『仕事と若者:失業世代 Work and the young : Generation jobless』にも、「英国と米国では、高い学費をかけてリベラルアーツの学位を取得した多くの人が、まともな仕事にありつけない」、「世界的に教育と労働市場のミスマッチが問題」という記述があった。日本の大学はつい最近までサラリーマン予備軍のプールとして存在し、企業のための人材教育の役割を期待されていなかった。高度成長の波に乗って雨後の竹の子のように大学が増えたが、その多くはコストのかからない文系大学であった。そして学生たちは大学時代を自由に過ごし(私の学生時代、大学はレジャーランドと呼ばれていた)、タブラ・ラサ状態で採用された。それは新人研修によって企業文化を徹底的に叩き込み、定年までひとつの企業と添い遂げる従順なサラリーマンに仕立て上げるのに好都合だったからだ。

しかしグローバル化した熾烈な競争によってコストカットを強いられる企業は、新卒を囲い込んで教育する余裕がなくなり、即戦力となるノマドを雇うようになる。そして何のスキルもない文系学生が仕事にあぶれることになるが、つまりは「教育と労働市場のミスマッチ」が起こっているのだ。 もちろん人文系の知識はクリエイティブ産業が花盛りの時代においてアイデアの宝庫であるはずだ。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズに代表される新しい経営者たちは真面目腐った人たちではなく、ボヘミアンな遊び心にあふれ、それを仕事に生かしている。しかしそれらはタコツボ的で柔軟性のない現在の形で制度化されている文系の学問からは汲み取れないものかもしれない。

またアップル製品が象徴するように、工学部の学生にもデザインセンスが求められる時代であるが、技術的なスキルがベースにあってこそのデザインなのだ。もちろん文系大学では語学力や教養が身につくかもしれない。しかし、語学は何か伝えるべきものがあってこその語学だし(だから語学のニーズはむしろ理系にある)、教養はノマド的な働き方をする人間のコミュニケーションスキルとして生かせるものだ。つまり語学力や教養はもはや単独では意味がないということになる。もはや学問の分業体制は終わったのだ。

とりわけ能力の高いノマドたちは大学で学ばなくとも自分で語学力を身に着けるだろうし、教わらなくても読むべき本を自分で探し当てるだろう。それこそインターネットが最大限に活用されうる分野だ。それに語学力や教養は大学で学ぶよりも、小さいころから親などから受け継ぐ文化資本としての側面が大きい。日本の文系大学や文系学部は、英国のように「教育と労働市場のミスマッチ」として早急に淘汰されてくのか、それとも若い世代に対して説得的な存在意義を改めてアピールできるのか注目されるところだ。



posted date: 2013/May/05 / category: 本・文学政治・経済
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