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書評 『さよなら、もんじゅ君』

text by / category : 本・文学

いまや9万人がフォローする、ツイッターから生まれたアイドルもんじゅ君。長らく反原発運動というものは、それに関わると何か危険であるかのようなイメージがまとわりついてきたが、私たちが次第にこの問題に関心を持たないようになり、最終的に原発そのものの存在を忘れていったのは、このことが大きな一因だろう。その点、福島の原子力発電所事故を受けて誕生したもんじゅ君というキャラクターは、その「ゆるキャラ」によって、反原発を表明することの敷居を下げ、原発推進派VS反原発派の対立を(ある程度)相対化することに成功した。

さようなら、もんじゅ君---高速増殖炉がかたる原発のホントのおはなししかしながら、もんじゅ君の功績はそれだけではない。もんじゅ君は、ただ単に反原発・脱原発を訴えているのではなく、原発の問題が私たちの生活に深く根ざし、影響を与える問題であるにも関わらず、原発について学校や会社といった地域社会で回りの人と話すことがタブーであるという今までの何だか気持ち悪い状態、ひいてはそれが日本において、言論の自由を前提とする民主主義を阻害してきた事実を何よりも悲しんでいる。

そう、もんじゅ君が「ボクのすんでいる日本海側の福井県敦賀市って、冬のあいだはしめった冷たい風に吹かれながら、どんよりくもった空と、にぶい群青色の海を、まいにちながめてくらすまちなの」(『さようなら、もんじゅ君-高速増殖炉がかたる原発のホントのおはなし』13ページ)と言うことばの中には、あえて言えば都会(「日本」に集中する)からの差別を受ける屈辱感、それにもかかわらず電力を供給している都会への憧れや嫉み、でも原発を引き受けることで少しは都会に近づける、もしくは対等になれる(かも)、などなどの、原発を受け入れた地域住民の様々な複雑な感情が表現され尽くされているが、そうしたコンプレックスを言語化することは住民の間でタブー化されていったのだろう。もんじゅに限らず原発は、そういうところに建ってるわけで、都会の人はそこに住むことのリアリティを想像できない。おそらく原発は、そういうところに住まざるを得ない人々が、郷土に対する誇りを保つことを可能にしてくれる一筋の光、希望のようなものだったのだ。田舎モノだらけのこの狭い日本で、細かな差異化と差別は強固にあったし、今だってある。その意味で、原発とは、都会・田舎を問わず、すべての人間の心の中にある差別心の生んだモンスターだったともいえる。

という私も富山出身で、幼い頃から、長い長い冬中続くどんよりと曇った灰色の空、肺に堪える重く冷たい湿気がいやでいやでならなかった。何としても一刻も早くこんな土地から出たかった。そのチャンスは、地元進学校に行き、都会の良い大学を目指すことによって掴み取ることができる。良い大学に入った高校生たちは将来誰もこの土地に舞い戻ることはないだろう。冬の最中、電車で「日本」から「日本」に出たとたん、突然青い空が開けるのを初めて目にしたときの衝撃は未だに忘れられない。

都会の先端情報を価値の頂点として成り立つライフスタイルが何よりも貴重だった時代の価値観は、おそらく311を境として大きく転換した。長く続いた旧価値観(競争とお金儲け)に未だに縛られたままの人々もまだまだ、特にネット情報の入らない年配の方には多いが、そうした価値観は明らかにイケテナイものになった。イケテナイことは自明でも、この価値観に支えられたライフスタイルをどう変えればいいかわからないから怠惰にしがみ続けているだけの人も多い。311で露になったのは、この真っ向から反する2つの価値観のせめぎ合いだ。きれいな海、土、風、持続的に生物が生きていける環境、こういったものが「正しい」価値観として改めて見直された。しかし、それでも、あまりに長く続いた旧価値観をベースとしたシステムが一気に変わるには時間が必要だろう。都会でしか手に入らない先端情報と、そこでの人的交流による恩恵に代替する価値観(例えば農業をベースとする持続可能な生活)をリアルに支える共同体・インフラを見出せない限り、やはりあの土地に舞い戻ることを私は躊躇するだろう。

おしえて! もんじゅ君―これだけは知っておこう 原発と放射能しかし、そうではあっても、311が、今までの議論すら不可能であった原発の、ひいては自分の生活の基盤となるエネルギーやライフスタイルの問題を、一度立ち止まって、私たち一人ひとりが自分の頭で考え、その自明性を問い直すきっかけになったことは事実だ。不幸な事故、今も全く収束せず、もしかしたら私たちはカタストロフに向かっているのかもしれないけれど、こうした疑問を表立って(多少とも)声に出せるようになったことだけは、誰が何といおうと良かった。それは、抑鬱された者たちの声だからだ。不謹慎かもしれないが、本当に大事なことは何一つ語ってはいけないという言葉を奪われた思考停止状態が長く続いた日本の状態が少しでも変わるなら、次の瞬間この国が滅亡してしまったとしても、それは私たちにとって本質的に不幸なことではないように思える。

一方で、もんじゅ君が巻末で夢見ているような2050年は果たして来るのだろうか、と思わせる日常も相変わらずある。(夢と悪夢は容易に入れ替わる。もんじゅ君の見る2050年の現実が悪夢ではありませんように。)新幹線や電車の中は、まだ5月にもかかわらずすでにクーラーで冷やしまくられていて、それに誰も異を唱える様子もなく、皆羊のように黙りこくっている。耳が痛くなるような車内放送を眉一つ動かさずやり過ごせるようにその身体が訓化された人たちは、冷房の温度を一度上げただけで文句を言いに怒鳴り込んでくるという人たちと本当に同一の人たちなのだろうか。もっとも、そうした理不尽な幼児性に対し毅然とした言葉で対応できない、交渉どころかコミュニケーションすら不能である状態が、日本中に蔓延しているという事実がそもそも問題なのであるが。

「おまかせ」は結局高くつく。自分の命すら対価として支払うことになる(電車の冷房は分厚いセーターを持ち歩くことで対処できるけど、忘れたらこれも命取りだ)。自分の命すら差し出す事態になっても、目の前の「便利」「気持ちよさ」が手放せないのは、ただ怠惰なだけではないのだろう。生き延びるための情報やノウハウ、そしてそうしたものを探し当てる能力を、人生の中で獲得する機会がなかったのだ。そしてそれは多分に日本の教育システムの問題だ。「だってお金なかったら生きていけないでしょ」で思考停止しなくてすむような、新しい価値観を皆が受け入れられる社会システムを再構築できるかどうかは、日本人が総体的に賢くなれるかどうかにかかっている。

小出裕章さんが今多くの人々に支持されているのは、彼の価値観が一貫してブレていないからだ。日本人の大半が、幻想でしかない、しかも多くの犠牲の上に成り立つ「豊かさ」に惑わされた日本の高度成長期にあっても、小出さんの「豊かさ」の定義は変わらなかった(『原発のない世界へ』27ページ)。祝島で30年間反原発運動をブレることなく続けている住民の方々もしかり。我々は今、幻想から目を覚まし、本当の「豊かさ」を取り戻すための賢さと知恵が試されているのだ。

この5月23日内閣府原子力委員会の新大綱策定会議において、日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉の可能性が文部科学省によって示されたが、これまでのように「お上」から押し頂いた既成の決定事項でなく、私たちの総体的な社会の意志に下支えされたものでない限り、それは実現することはないだろう。

 



posted date: 2012/Jun/08 / category: 本・文学
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